◎長い平和の時代と動物的長寿者
沖ヨーガの沖正弘は、インドで念入りに長寿者のことを観察し、長寿者には2種あることに気が付いた。それは、動物的長寿者と人間的長寿者。
人間的長寿者の条件は、
1.頭がぼけていないこと。
2.どんな環境にも適応していける工夫と能力が身についていること。
沖正弘は、インドで152歳を筆頭に何人もの長寿者に出会ったが、体は老化しているが、ほとんど老人ボケを感じなかったという。
動物的長寿者の条件は、
1.魂の抜け殻のようにぼけていること
日本では動物的長寿者が多い。
152歳の長寿者の生活スタイルの特徴として彼は以下を挙げる。
1.少しづつ小刻みに眠る。
2.生活の大半は冥想で、体操もする。
3.小食であり、一日の食事は小皿に一杯くらいで、主食は玄米やアワ、そば粉の蒸したのなど。食事時間は一定せず、空腹になったら食べる。
4.ほとんど全裸で生活(陰部は隠す)。カシミールで寒さに慣れるには裸体が一番と思い、以来裸体だそうだ。
5.ときどき身体をぐっと締めたり、クンバカをやったりして血行をよくする。
この長寿者によると一生の食べ物の量と呼吸をする空気の量は決まっているので、できるだけ時間をかけて食べ、ゆっくり呼吸や脈を打つのが長寿の基本だそうだ。
138歳の長寿者からは、食べ過ぎると身体は固くなる、また便秘すると身体は固くなると、沖氏は聞いた。ハタ・ヨーガはまず小食と快適なお通じから。冥想修行もしかりだ。
一日中坐れるというのは、それだけでも只者ではないが、若いときからその重要性を意識し、励行するのは、長寿そのものを目的としていたからではないし、152歳の長寿者も長寿を目的として生きているわけではないことを認めている。彼らは時事問題にも現代社会の問題にも大いに関心を示していた。
長寿そのものが重要な時代ではないことが、要介護者がこれだけ多いことにも表れている。如何に自立して老後を生きるかが問題なのだ。老後健康であることは、若年中年から意識して努力しないと実現できないものなのではないかと思う。
日本は長寿社会だが、学校教育で健康な老後を送る知恵を知らしめる必要があるのではないか。
小食(飽食は不可、菜食中心)、体操(筋肉系でない呼吸法を伴うやつ)、呼吸法、そして冥想(リラックスだけが狙いではない)など、追加すべきカリキュラムは多い。
長寿者が多いことは平和の時代が長く続いた配当であるが、その恵みを浪費している感があるのは遺憾なことである。
沖ヨーガの沖正弘は、インドで念入りに長寿者のことを観察し、長寿者には2種あることに気が付いた。それは、動物的長寿者と人間的長寿者。
人間的長寿者の条件は、
1.頭がぼけていないこと。
2.どんな環境にも適応していける工夫と能力が身についていること。
沖正弘は、インドで152歳を筆頭に何人もの長寿者に出会ったが、体は老化しているが、ほとんど老人ボケを感じなかったという。
動物的長寿者の条件は、
1.魂の抜け殻のようにぼけていること
日本では動物的長寿者が多い。
152歳の長寿者の生活スタイルの特徴として彼は以下を挙げる。
1.少しづつ小刻みに眠る。
2.生活の大半は冥想で、体操もする。
3.小食であり、一日の食事は小皿に一杯くらいで、主食は玄米やアワ、そば粉の蒸したのなど。食事時間は一定せず、空腹になったら食べる。
4.ほとんど全裸で生活(陰部は隠す)。カシミールで寒さに慣れるには裸体が一番と思い、以来裸体だそうだ。
5.ときどき身体をぐっと締めたり、クンバカをやったりして血行をよくする。
この長寿者によると一生の食べ物の量と呼吸をする空気の量は決まっているので、できるだけ時間をかけて食べ、ゆっくり呼吸や脈を打つのが長寿の基本だそうだ。
138歳の長寿者からは、食べ過ぎると身体は固くなる、また便秘すると身体は固くなると、沖氏は聞いた。ハタ・ヨーガはまず小食と快適なお通じから。冥想修行もしかりだ。
一日中坐れるというのは、それだけでも只者ではないが、若いときからその重要性を意識し、励行するのは、長寿そのものを目的としていたからではないし、152歳の長寿者も長寿を目的として生きているわけではないことを認めている。彼らは時事問題にも現代社会の問題にも大いに関心を示していた。
長寿そのものが重要な時代ではないことが、要介護者がこれだけ多いことにも表れている。如何に自立して老後を生きるかが問題なのだ。老後健康であることは、若年中年から意識して努力しないと実現できないものなのではないかと思う。
日本は長寿社会だが、学校教育で健康な老後を送る知恵を知らしめる必要があるのではないか。
小食(飽食は不可、菜食中心)、体操(筋肉系でない呼吸法を伴うやつ)、呼吸法、そして冥想(リラックスだけが狙いではない)など、追加すべきカリキュラムは多い。
長寿者が多いことは平和の時代が長く続いた配当であるが、その恵みを浪費している感があるのは遺憾なことである。