◎涅槃に最も近い神秘的物質
エリアーデは、カーマ・ヨーガの聖典、秘密集会タントラ(グフヤサマージャ・タントラ)が、性交も涅槃の入り口であることを示す文献であることを指摘している。
『タントラの最も重要な文献の一つ、『グフヤサマージャ・タントラ』を注釈して、月称(チャンドラキールティ)とツォンカパは次の点を力説いしている。
性交儀礼の問に、神秘的な合一(samapatti)が実現され、その結果二人は涅槃の意識を獲得する。男においては《菩提心》(bodhicitta)と名づけられるこの涅槃の意識は滴(しずくbindu)として顕われ、いわばそれと同一である。その滴は頭の頂上から下り、五重の光を発出して性器官を満たす。月称はこう命じている。「合一の問、金剛杵(vajra)と蓮華(padma)とをその内部が五重の光で満たされていると瞑想しなければならぬ」。
《滴》は涅槃の意識と同一であり、そうしたものとして頭の頂上で形成されると考えられており、普通そこで内的な光が体験される。したがって《滴》は涅槃の意識の「光明」に他ならない。
とはいえタントリズムにおいては、菩提心は同時に精液の本質と同一視されている。
この逆説的な過程をよりよく理解するためには、インドの精緻な生理学の細部に立ち入らねばならない。
少くとも次の事実を想起しておこう。涅槃の意識は絶対的な光の体験であるが、それが性交儀礼によって獲得されるとき、その光は有機的生の奥深くにまで入り込み、その奥底においても、精液の本質そのものの中に、神的な光、「宇宙」を創造した原初の光輝を見つけ出すことができる。
大乗仏教にとって、神秘的な光と精液の本質とのこの同一視は馬鹿げたことではない。
なぜなら、宇宙の諸要素、如来、そして結局のところ全存在の根源、および菩提心の様相、これらは悉く「原初の光」によって成り立っているからである。』
(エリアーデ著作集第六巻 悪魔と両性具有/せりか書房P44-45から引用)
《滴》は涅槃の意識の「光明」であり、死のプロセスにおいて万人が最初に目撃?する原初の光明のことである。多くの正統的な冥想マスターが弟子に対して不犯、禁欲を要求するものだが、これによって、その理由を想像することができる。
この修行では、射精してはならないので、精液は物質レベルの精液を指すと考えてはいけない。また精液を涅槃の展開の一つと見るのは通俗的過ぎるが、カーマ・ヨーガにおいては、あるいは密教においては、精液こそ涅槃に最も近い神秘的アイテムであると示している。だが、こういう世間常識からするといかがわしすぎるメソッドやらシンボリズムは、邪道に落ちやすいため左道というありがたくない分類名をいただいている。
しかし真に情熱あふれる修行者にとっては、その困難さもあまり問題にしないかもしれないが、極めて難易度の高い道であることは間違いない。
エリアーデは、カーマ・ヨーガの聖典、秘密集会タントラ(グフヤサマージャ・タントラ)が、性交も涅槃の入り口であることを示す文献であることを指摘している。
『タントラの最も重要な文献の一つ、『グフヤサマージャ・タントラ』を注釈して、月称(チャンドラキールティ)とツォンカパは次の点を力説いしている。
性交儀礼の問に、神秘的な合一(samapatti)が実現され、その結果二人は涅槃の意識を獲得する。男においては《菩提心》(bodhicitta)と名づけられるこの涅槃の意識は滴(しずくbindu)として顕われ、いわばそれと同一である。その滴は頭の頂上から下り、五重の光を発出して性器官を満たす。月称はこう命じている。「合一の問、金剛杵(vajra)と蓮華(padma)とをその内部が五重の光で満たされていると瞑想しなければならぬ」。
《滴》は涅槃の意識と同一であり、そうしたものとして頭の頂上で形成されると考えられており、普通そこで内的な光が体験される。したがって《滴》は涅槃の意識の「光明」に他ならない。
とはいえタントリズムにおいては、菩提心は同時に精液の本質と同一視されている。
この逆説的な過程をよりよく理解するためには、インドの精緻な生理学の細部に立ち入らねばならない。
少くとも次の事実を想起しておこう。涅槃の意識は絶対的な光の体験であるが、それが性交儀礼によって獲得されるとき、その光は有機的生の奥深くにまで入り込み、その奥底においても、精液の本質そのものの中に、神的な光、「宇宙」を創造した原初の光輝を見つけ出すことができる。
大乗仏教にとって、神秘的な光と精液の本質とのこの同一視は馬鹿げたことではない。
なぜなら、宇宙の諸要素、如来、そして結局のところ全存在の根源、および菩提心の様相、これらは悉く「原初の光」によって成り立っているからである。』
(エリアーデ著作集第六巻 悪魔と両性具有/せりか書房P44-45から引用)
《滴》は涅槃の意識の「光明」であり、死のプロセスにおいて万人が最初に目撃?する原初の光明のことである。多くの正統的な冥想マスターが弟子に対して不犯、禁欲を要求するものだが、これによって、その理由を想像することができる。
この修行では、射精してはならないので、精液は物質レベルの精液を指すと考えてはいけない。また精液を涅槃の展開の一つと見るのは通俗的過ぎるが、カーマ・ヨーガにおいては、あるいは密教においては、精液こそ涅槃に最も近い神秘的アイテムであると示している。だが、こういう世間常識からするといかがわしすぎるメソッドやらシンボリズムは、邪道に落ちやすいため左道というありがたくない分類名をいただいている。
しかし真に情熱あふれる修行者にとっては、その困難さもあまり問題にしないかもしれないが、極めて難易度の高い道であることは間違いない。