◎なにもかもなし(大虚空の丸)
合気道開祖植芝盛平の合気道の説明。
『「生あるものには必ず休みあり」休みの意義は生きる働きの生み所であります、四角の休み所を保つ場所であります。我々の身の内にはどなたにも三種の神宝と十種の神宝を与えられております。神が、一つの目的の大宇宙をつくられるに当たっては、大虚空をつくられています。何も無いということが大虚空の丸であってまた大虚空の目的であります。
この大虚空が一霊四魂三元八力の御心御姿御振舞いが、一つの御姿であります。
合気もまたこれにならって、自分が天御中主となって、一霊四魂三元八力の御姿御振舞いを完成します。これに同化して宇宙の大神様の目的に向かって御奉公するのであります。
十種の神宝も、三種の神器もみな、吾人の身の内に与えられてあります。これを生命の動きとして取り出して自由に使わなければなりません。それについて、天の浮橋に立って言霊の妙用たる身内にある赤い血と白い血のたぎりによって、光も熱も力も発してきます。
それで、言葉は末の末でありますが、身の内の血のたぎりによって、すべてのものが一声出しても光と熱と力と同時に出て来て、一つの声でも四元(気流柔剛ウの働き)に結ばれて一つの力の姿を現わします。それによってすべての本を生み出すことになります。千種(ちくさ)の生み親となることになります。』
(合気神髄/植芝盛平/八幡書店P71から引用)
「生あるものには必ず休みあり」の休とは死の世界のことであり、死の世界は、生の産み親。
人間のボディには、既に三種の神器と十種神宝がある。
出口王仁三郎によれば、剣はボディ、まがたま(八咫勾瓊)は暦(太陽暦、恒天暦、太陰暦)鏡は言霊。言霊であるから、もともとは伊勢に天津金木を祀ってあったのが、時代が下がって金属鏡にした由(新月の光 下巻P71)。十種神宝を10チャクラとすれば、身の内に三種の神器と十種神宝は確かにある。
これらはディテールだが、最初の根本は、自分が天御中主となることで、神人合一を果たすことにある。天皇と同様、合気道でも、神事が第一なのだ。
合気道開祖植芝盛平の合気道の説明。
『「生あるものには必ず休みあり」休みの意義は生きる働きの生み所であります、四角の休み所を保つ場所であります。我々の身の内にはどなたにも三種の神宝と十種の神宝を与えられております。神が、一つの目的の大宇宙をつくられるに当たっては、大虚空をつくられています。何も無いということが大虚空の丸であってまた大虚空の目的であります。
この大虚空が一霊四魂三元八力の御心御姿御振舞いが、一つの御姿であります。
合気もまたこれにならって、自分が天御中主となって、一霊四魂三元八力の御姿御振舞いを完成します。これに同化して宇宙の大神様の目的に向かって御奉公するのであります。
十種の神宝も、三種の神器もみな、吾人の身の内に与えられてあります。これを生命の動きとして取り出して自由に使わなければなりません。それについて、天の浮橋に立って言霊の妙用たる身内にある赤い血と白い血のたぎりによって、光も熱も力も発してきます。
それで、言葉は末の末でありますが、身の内の血のたぎりによって、すべてのものが一声出しても光と熱と力と同時に出て来て、一つの声でも四元(気流柔剛ウの働き)に結ばれて一つの力の姿を現わします。それによってすべての本を生み出すことになります。千種(ちくさ)の生み親となることになります。』
(合気神髄/植芝盛平/八幡書店P71から引用)
「生あるものには必ず休みあり」の休とは死の世界のことであり、死の世界は、生の産み親。
人間のボディには、既に三種の神器と十種神宝がある。
出口王仁三郎によれば、剣はボディ、まがたま(八咫勾瓊)は暦(太陽暦、恒天暦、太陰暦)鏡は言霊。言霊であるから、もともとは伊勢に天津金木を祀ってあったのが、時代が下がって金属鏡にした由(新月の光 下巻P71)。十種神宝を10チャクラとすれば、身の内に三種の神器と十種神宝は確かにある。
これらはディテールだが、最初の根本は、自分が天御中主となることで、神人合一を果たすことにある。天皇と同様、合気道でも、神事が第一なのだ。