◎日本の最初の宗教革命の時代
7世紀から関東への朝鮮人大移民が行われた。
666年冬、百済の男女2千余人を東国に住まわせた。百済の人々に対して僧俗を選ばず3年間国費による食を賜った。
716年五月 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。
こうした関東への外国人の大量移民の最中の711年、上州高崎近郊に、多胡碑が建立された。碑文は、この地域を多胡郡とし、羊太夫に300戸を支配させるというもの。羊太夫は、超能力者であったという伝承が多い。翌年古事記が編纂される。
時代は下がって、江戸時代の平戸藩主松浦静山の甲子夜話によれば、旅館長崎屋にて上州の代官が紅毛人テツチンギに対し、羊太夫の墓から出てきたというご禁制の十字架を示し、鑑定せよと迫った。(『甲子夜話』巻之六十三 多胡碑十字架の事)
更に、先年、上野国にある多胡羊大夫の碑の傍より石槨を掘出したのだが、その中に古銅券が発見されて、その標題の字がJNRIだった。その後ある人が、蛮書『コルネーキ』を見ていたところ、この字がキリストの磔刑図の上方に描かれていたのを発見したというが、その意味ははっきり言わなかったという。(『甲子夜話』 続篇巻之七十三 多胡碑の傍より掘出す蛮文并考)
「JNRI」は、ラテン語のIesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語INRIのことであって(飾り文字のIとJは似ている)、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"の意味で、西洋中世以前のイエスの磔刑図ではよく目にするところ。
中国におけるネストリウス派キリスト教は、635年阿羅本が始めて景教を中国に伝え、845年の会昌の破仏までは隆盛を誇っていたはずであり(大秦景教流行中国碑)、以上の話を踏まえれば、羊大夫は、キリスト教徒であった可能性が高い。
玄宗(712-756)の盛唐の時代には、日本は、道教の日本輸入を断ったが、それに先立ってキリスト教については、朝鮮からの大量移民に伴って、地域限定で認めていたということになろうか。
この混乱した時代の日本での宗教リーダーは、仏僧行基(668-749=日本国最初の大僧正)であり、日本での道教、キリスト教の差配、そして古神道の改竄である古事記の編纂の指導を行ったのは事実上彼だったのではないか。
この時代は日本の最初の宗教革命の時代であった。
7世紀から関東への朝鮮人大移民が行われた。
666年冬、百済の男女2千余人を東国に住まわせた。百済の人々に対して僧俗を選ばず3年間国費による食を賜った。
716年五月 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。
こうした関東への外国人の大量移民の最中の711年、上州高崎近郊に、多胡碑が建立された。碑文は、この地域を多胡郡とし、羊太夫に300戸を支配させるというもの。羊太夫は、超能力者であったという伝承が多い。翌年古事記が編纂される。
時代は下がって、江戸時代の平戸藩主松浦静山の甲子夜話によれば、旅館長崎屋にて上州の代官が紅毛人テツチンギに対し、羊太夫の墓から出てきたというご禁制の十字架を示し、鑑定せよと迫った。(『甲子夜話』巻之六十三 多胡碑十字架の事)
更に、先年、上野国にある多胡羊大夫の碑の傍より石槨を掘出したのだが、その中に古銅券が発見されて、その標題の字がJNRIだった。その後ある人が、蛮書『コルネーキ』を見ていたところ、この字がキリストの磔刑図の上方に描かれていたのを発見したというが、その意味ははっきり言わなかったという。(『甲子夜話』 続篇巻之七十三 多胡碑の傍より掘出す蛮文并考)
「JNRI」は、ラテン語のIesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語INRIのことであって(飾り文字のIとJは似ている)、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"の意味で、西洋中世以前のイエスの磔刑図ではよく目にするところ。
中国におけるネストリウス派キリスト教は、635年阿羅本が始めて景教を中国に伝え、845年の会昌の破仏までは隆盛を誇っていたはずであり(大秦景教流行中国碑)、以上の話を踏まえれば、羊大夫は、キリスト教徒であった可能性が高い。
玄宗(712-756)の盛唐の時代には、日本は、道教の日本輸入を断ったが、それに先立ってキリスト教については、朝鮮からの大量移民に伴って、地域限定で認めていたということになろうか。
この混乱した時代の日本での宗教リーダーは、仏僧行基(668-749=日本国最初の大僧正)であり、日本での道教、キリスト教の差配、そして古神道の改竄である古事記の編纂の指導を行ったのは事実上彼だったのではないか。
この時代は日本の最初の宗教革命の時代であった。