◎自然に無分別智を経験する
ダライラマが、密教でのカーマ・ヨーガに言及している。
『『秘密集会タントラ』の本尊のうち、ジュニャーナパーダ流でおもに用いられるグヒヤサマージャ・マンジュシュリーヴァジュラの究竟次第についての注釈である『マンジュシュリームカーガマ』(マンジュシュリーの聖なる言葉)の中で、インド人の導師プッダシュリージュニャーナは次のように言っています。
この惑星に人間として生まれた者は、誰であれ、その身体構造と構成元素のおかげで、光明や概念のない状態(無分別) と呼ばれる繊細な意識のありようを、わずかな間ではあるけれども、自然に経験する場合がある、と。
それは、睡眠中、くしゃみをするとき、気絶、そして性的な絶頂時です。自分自身の中にもともと何らかの潜在能力や種子があるからこそ、それを大きく成長させることが可能なのです。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)
※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。
チベット死者の書では、死の最初のステージで原初の光明という悟りに早くも到達するが、無分別智はその手前。修行によって主体客体を離れるのは簡単なことではないが、ここでは、自然な生活の中で、般若=無分別智へコンタクトすることがあることを指摘している。
このわずかなチャンスであっても、人間には無限光明に向かう可能性があることの説得材料として、チベット密教者はこれを出してきている。この4種のチャンスの中でくしゃみはもっともありふれているが、その一瞬に般若を感得するには、相当な繊細さが要求される。
ダライラマが、密教でのカーマ・ヨーガに言及している。
『『秘密集会タントラ』の本尊のうち、ジュニャーナパーダ流でおもに用いられるグヒヤサマージャ・マンジュシュリーヴァジュラの究竟次第についての注釈である『マンジュシュリームカーガマ』(マンジュシュリーの聖なる言葉)の中で、インド人の導師プッダシュリージュニャーナは次のように言っています。
この惑星に人間として生まれた者は、誰であれ、その身体構造と構成元素のおかげで、光明や概念のない状態(無分別) と呼ばれる繊細な意識のありようを、わずかな間ではあるけれども、自然に経験する場合がある、と。
それは、睡眠中、くしゃみをするとき、気絶、そして性的な絶頂時です。自分自身の中にもともと何らかの潜在能力や種子があるからこそ、それを大きく成長させることが可能なのです。』
(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)
※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。
チベット死者の書では、死の最初のステージで原初の光明という悟りに早くも到達するが、無分別智はその手前。修行によって主体客体を離れるのは簡単なことではないが、ここでは、自然な生活の中で、般若=無分別智へコンタクトすることがあることを指摘している。
このわずかなチャンスであっても、人間には無限光明に向かう可能性があることの説得材料として、チベット密教者はこれを出してきている。この4種のチャンスの中でくしゃみはもっともありふれているが、その一瞬に般若を感得するには、相当な繊細さが要求される。