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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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審神なき世界

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◎チャネリングという修行形態の評価

この時代は、人間が悪意を持つということに寛容であり、無感覚な時代である。審神とは憑依あるいは降臨した神がまず善神か悪神かを決めること。巷間では、「霊界では高位」の人物だと自称する人がしばしばあるが、その人の居る霊界が善なる霊界とは限らず、地獄的霊界であることはままある。
それを見分ける技術が審神(さにわ)である。

出口王仁三郎の審神論(霊界物語から)。

『総て神界には正神界と邪神界との二大別あるは、この物語を一ぺん読みたる人はすでに諒解されしことならむ。

されど正邪の区別は人間としていかに賢明なりといへども、これを正確に審判することは容易でない。邪神は善の仮面を被り、善言美辞を連ね、あるひは一時幸福を与へ、あるひは予言をなし、もつて審神者の心胆を蕩(とろ)かし、しかして奥の手の悪事を遂行せむとするものである。

また善神は概ね神格容貌優秀にして、何処ともなく権威に打たるるものである。されど中には悪神の姿と変じ、あるひは悪言暴語を連発し、一時的災害を下し、かつ予言の不適中なること屡なるものがある。

これらは神界の深き御経綸のしからしむところであつて、人心小智の窺知し得べき範囲ではないのである。

ゆゑに審神者たらむものは、相当の知識と経験と胆力とがもつとも必要である。かつ幾分か霊界の消息に通じてゐなければ、たうてい正確な審神者は勤まらないのである。世間の審神者先生の神術にたいしては、ほとんど合格者はないといつても過言に非ずと思ふのである。

 却説、盤古大神の注意周到なる審神はよくその効を奏し、邪神はここに化の皮をむかれ、一目散にウラルの山上目蒐けて雲霞のごとく逃げ帰つた。されど一度憑依せし悪霊は全部脱却することは至難の業である。

ちやうど新しき徳利に酒を盛り、その酒を残らず飲み干し空にしたその後も、なほ幾分酒の香が残存してゐるごとく、悪霊の幾部分はその体内に浸潤してゐるのである。この神憑りありしより、常世彦、常世姫、竜山別も、日を追ひ月を重ねて、ますます悪神の本性を現はし、つひには全部八頭八尾の大蛇の容器となり、神界を大混乱の暗黒界と化してしまつたのである。あゝ慎むべきは審神の研究と神憑りの修業である。』
(霊界物語第5巻第一四章 審神者から引用)

この霊界物語では、実力ある審神者が邪神を弁別してみせたが、かえってその結果世界は更に紛糾することになってしまったという。

現代では、力量ある審神者はまずいないが、利己主義、物質優先・金銭優先主義という邪悪な思想に侵された人が大半な中で、正統に審神をしてみせたところで、その結果は必ずしも喜ばしいものとは限らぬ。

帰神、神がかり、神降ろし、チャネリングという修行には審神者が必ず必要だが、審神者が適格であっても、神降ろしという修行形態がダメという評価なのである。

明治大正の当時ですら大神がかかる人は稀であった。いわんや現代をや。『私は悪人だから、あなたも悪人だろう』みたいなのが、あたりまえとされる人間関係ばかりでは、どうにもならない。本当に真善美を求める気持ちを洗い出していくいう方向性がないと、世界は落ちてゆくばかり。

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