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錬金術の求道者ニュートン

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◎一生をかけて禁じられた修行に挑む

アイザック・ニュートンは、何はさておき錬金術を最優先に、一生をかけて研究し続けた。全蔵書の十分の一が錬金術関係であり、錬金術の合間に公務をこなしていた。
彼の助手のハンフリー・ニュートンの主たる仕事の一つは火を焚く炉の番だった。

表向きの大科学者、アイザック・ニュートンは、錬金術の全伝統に関する大がかりな研究に取り組み、歴代の錬金術師たちの業績の整理をし、事典、索引まで作成していた。

『錬金術は彼が最も持続的に情熱を傾けた対象であったように思える。ニュートンの他の研究がほんの短い問しか彼の注意をひきつけなかったのに対して、錬金術はほぼ三〇年間にわたって、大きな中断もなく彼の注意をひき続けたのである。

一六六四年から六五年にかけての一年間、ニュートンは数学に圧倒的な時聞を割き、微積分の萌芽的思想を生み出したが、その後は数学への興味を失っていき、それヘ関心を集中させるためには、ますます外からの刺激を必要とするようになっていった。

光学にかかわったのは六〇年代初期のごく短い期間にすぎなかった。そして二度と真剣に光学に立ち戻ることはなかった。

機械学および動力学に没頭したのは、たった二度の限られた期間だけだった。一度は六〇年代であり、次いで『プリンキピア』を書いた二年半の間である。一方、錬金術への傾倒は途絶えることなく持続した。

彼の死後明らかにされた蔵書目録から、蔵書の一〇分の一以上が錬金術関係のものであることが知れる。八〇年代初期には、実験に没頭するあまり、その日が何曜日か失念するほどであった。彼自身が記入した日付けはしばしば暦と喰い違っている。

われわれがハンフリー・ニュートンを思い浮かべるのは、『プリンキピア』の印刷用原稿を清書した秘書としてであるが、彼自身のケンブリッジ滞在中の記憶は、火を焚いた炉に集中している。

ニュートンの記録が示すところでは、『プリンキピア』の決定稿が完成する前の一六八六年の春、彼はでの作業のために原稿書きを中断している。
(中略)

何より重要なことは、『プリンキピア』出版後五年たらずの九〇年代初頭には、錬金術の全伝統に関する大がかりな研究に取り組んでいることである。

その研究からおよそ全体の半数近くの文書が生まれている。そこで次のような疑問を禁じ得ない。すなわち、われわれはひょっとしてニュートンの生涯を衝き動かしたものについて誤解してきたのではないか、という疑問である。』
(科学革命における理性と神秘主義/M.N.R.ボネリ編/新曜社P164-165から引用)

一般的な錬金術修行者の日課は、冥想し、炉を絶やさぬようにし、物質変成実験を繰り返し、生活の資を稼ぐために、勤労したりパトロンのところを訪ねたりというようなイメージである。

インドのクンダリーニ・ヨーギは、炉で火を焚かないから、西洋の錬金術師たちが炉で求めていたのは、世界構成元素として物質変成のメカニズムを実証しつづけることにより、修行の前途についてのインスピレーションを得ようとしていたのではないか。

錬金術文書という体系化なき経典群に体系を与えるのは、炉による実験しかなかったのではないか。

錬金術が禁止されていた時代に錬金術を行うというのは、唐末のような仏教禁止政策の下で禅修行するようなもの。

ニュートンも命をかけて錬金術修行していたのだ。

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