◎親鸞の悟りの維持
まはさてあらんとは、まあそんなものだろう。
親鸞聖人五九歳の4月、高熱にうなされて4日も寝込んでいた。その明け方に、苦しい息の中で聖人は「まはさてあらん(まあ、そんなものだろう)。」とつぶやいた。
傍らにいた恵信尼公が、うわごとですかと聞いた。
すると聖人は「うわごとではない。寝込んで二日目の日から、うなされながらずっと大無量寿経を読んでいた。目を閉じていると経典の文字が一字も残らずはっきり見えた。これは不可解なことだ。ただ念仏の信心の他には何を気にかけるべき事があろうかと思っているのに。
だがよくよく考えてみると今から十七、八年前に、衆生利益のために真剣に浄土三部経を千回読もうとしたことがある。自ら信じ人に教えて信じさせること真の仏恩に報いることと信じ、その時は、名号の他に何の不足もないと気付いて、経典を読むのをやめた。
だが、どうやらその気持ちがまだ残っていたようだ。まことに自力の心というもの根強いものだ。」と話された。
親鸞も絶対他力という体験とは言えない体験に戻ろうと日々工夫努力を重ねているものですね。悟りを維持するというのは、親鸞にあっても厳しいことがわかる。まはさてあらん。
まはさてあらんとは、まあそんなものだろう。
親鸞聖人五九歳の4月、高熱にうなされて4日も寝込んでいた。その明け方に、苦しい息の中で聖人は「まはさてあらん(まあ、そんなものだろう)。」とつぶやいた。
傍らにいた恵信尼公が、うわごとですかと聞いた。
すると聖人は「うわごとではない。寝込んで二日目の日から、うなされながらずっと大無量寿経を読んでいた。目を閉じていると経典の文字が一字も残らずはっきり見えた。これは不可解なことだ。ただ念仏の信心の他には何を気にかけるべき事があろうかと思っているのに。
だがよくよく考えてみると今から十七、八年前に、衆生利益のために真剣に浄土三部経を千回読もうとしたことがある。自ら信じ人に教えて信じさせること真の仏恩に報いることと信じ、その時は、名号の他に何の不足もないと気付いて、経典を読むのをやめた。
だが、どうやらその気持ちがまだ残っていたようだ。まことに自力の心というもの根強いものだ。」と話された。
親鸞も絶対他力という体験とは言えない体験に戻ろうと日々工夫努力を重ねているものですね。悟りを維持するというのは、親鸞にあっても厳しいことがわかる。まはさてあらん。