◎文字通りいつでも死ねる
ダンテス・ダイジが、「悟りとは、神秘体験ではない。悟りとは態度のことだ。」と語っているところがある。
この態度のことを、冥想者の日常的な態度である、
常に、素直であること
常に、正直であること
常に、情熱的であること。
常に、リラックスしていること
のことだと思い込んでいたが、そうではなかった。
いつでも悟りが到来する態度のことである。それは何度でも悟れるということ。何度でも悟れるというのは、2度目の悟りというピークエ・エクスペリエンスを待つ準備ができていないと2度目はないし、3度目4度目ともなるとさらに何回もの人生をかけた準備が必要となるだろうと思う。
ところがつらつら思い出してみると、まさに悟りの到来をいつでも待っているという態度を生きた人物がいた。それはクリシュナムルティ。
クリシュナムルティの冥想録をみると(講演集は別)、悟りがothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。
これに対して、道元は、天童如浄の下で最初の身心脱落し、2度目への憧憬が正法眼蔵という哲学書になったと見ることができると思う。
出口王仁三郎は、最初の死と称する高熊山の洞窟での死の修行が最初の悟り。以後、彼の死の記録にはお目にかからないが、彼は六度死んだという。死の体験後しばらくは体調が戻らないようなので、長期間寝込んでしまった期間を探れば、いつ死んだかがわかるかもしれない。
身心脱落、中心太陽への突入という2種の究極の悟り、最終解脱は、呼吸停止、心拍停止を伴うとされる。そしてそれは、何かの拍子に生の世界に戻らないことになるかもしれない。
悟りとは態度だということは、文字通りいつでも死ねるということであって、素直だ、正直だというたぐいの人格的なことでは全くないということに最近思い当たった。
ダンテス・ダイジが、「悟りとは、神秘体験ではない。悟りとは態度のことだ。」と語っているところがある。
この態度のことを、冥想者の日常的な態度である、
常に、素直であること
常に、正直であること
常に、情熱的であること。
常に、リラックスしていること
のことだと思い込んでいたが、そうではなかった。
いつでも悟りが到来する態度のことである。それは何度でも悟れるということ。何度でも悟れるというのは、2度目の悟りというピークエ・エクスペリエンスを待つ準備ができていないと2度目はないし、3度目4度目ともなるとさらに何回もの人生をかけた準備が必要となるだろうと思う。
ところがつらつら思い出してみると、まさに悟りの到来をいつでも待っているという態度を生きた人物がいた。それはクリシュナムルティ。
クリシュナムルティの冥想録をみると(講演集は別)、悟りがothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。
これに対して、道元は、天童如浄の下で最初の身心脱落し、2度目への憧憬が正法眼蔵という哲学書になったと見ることができると思う。
出口王仁三郎は、最初の死と称する高熊山の洞窟での死の修行が最初の悟り。以後、彼の死の記録にはお目にかからないが、彼は六度死んだという。死の体験後しばらくは体調が戻らないようなので、長期間寝込んでしまった期間を探れば、いつ死んだかがわかるかもしれない。
身心脱落、中心太陽への突入という2種の究極の悟り、最終解脱は、呼吸停止、心拍停止を伴うとされる。そしてそれは、何かの拍子に生の世界に戻らないことになるかもしれない。
悟りとは態度だということは、文字通りいつでも死ねるということであって、素直だ、正直だというたぐいの人格的なことでは全くないということに最近思い当たった。