◎周囲に理解者なし
室町時代のこと。慧春尼は、相模の糟谷の人で、物凄い美人だった。兄が小田原・最乗寺(曹洞宗)の開山である了庵慧明。
彼女は、女ざかりの若い時期に男に興味を持たず30歳を超えてしまったのだが、ある日、最乗寺に兄了庵を訪ねて出家したいと切り出した。兄が断ると、慧春尼は鉄火箸を真っ赤に焼いてそれを顔に縦横に押し当てたので、兄も出家を認めざるを得なかった。
禅寺での修行に入ってからも、彼女の美貌の面影を慕う男性は引きも切らず、さる男僧は、彼女の袖に長い恋文を投げ入れた。
慧春尼は即座に「とてもおやすい御用です。但しお互いに僧の身の上なので、世間並みにデートすることもできない。あなたと会いたい場所は甚だ険難な場所なので、あなたは約束通り来て思いを遂げることができないでしょう」と意味深な返事を書いた。
了庵禅師が上堂して、一山の全員が集まって水を打ったように静まっているところに、突然衣を脱いで素っ裸になった慧春尼が出てきて、ラブレターの男性を指さして、「約束は守るから、さあ今ここで、さあさあ。」と招く。
禅師も師匠もあっけにとられたが、かの男性は、脱兎の如く山を逃げ出した。
この脱俗ぶりは、臨済の同僚の普化もびっくりだが、臨済も普化のことをやりすぎだとなじったことがあるが、なぜ普化がそうなのかをちゃんと理解していた。
一方慧春尼は、周囲に彼女のことを理解してくれる同じ境涯の人物がいなかったようだ。つきまとって修行の邪魔になるストーカー僧はいたが。兄も今一つだったようだ。
さて最乗寺山門前の大岩に薪が山と積み上げられた。慧春尼は、自ら周りの薪に火をつけ、薪の中央に坐った。
これにうろたえたのか、兄の了庵は、「熱いか、熱いか。」などとわかりきったことを問うのに対し、彼女は「冷熱は生道心にはわからぬ」と。・・・・最後まで誰も彼女のことをわからなかった。
同じ火定では、霍山の景通禅師は、仰山との問答が残っている人だが、正午に自ら蝋燭をとって薪の上に上り円光相を示し、紅炎の中に降魔の勢いを示したという。
甲州恵林寺の快川禅師が、山門楼上で織田信長に焼かれて、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と云ったのは、受動的に火に焼かれたものであり、上記2例とは異なるように思う。
華亭の船子和尚は、悟りを得た弟子をゲットできたので、自分で船を転覆させて死んだ。
これらは、死にざまを自由にするということだが、生死を超えるという本来の意味は、死にざまだけのことではないだろう。
室町時代のこと。慧春尼は、相模の糟谷の人で、物凄い美人だった。兄が小田原・最乗寺(曹洞宗)の開山である了庵慧明。
彼女は、女ざかりの若い時期に男に興味を持たず30歳を超えてしまったのだが、ある日、最乗寺に兄了庵を訪ねて出家したいと切り出した。兄が断ると、慧春尼は鉄火箸を真っ赤に焼いてそれを顔に縦横に押し当てたので、兄も出家を認めざるを得なかった。
禅寺での修行に入ってからも、彼女の美貌の面影を慕う男性は引きも切らず、さる男僧は、彼女の袖に長い恋文を投げ入れた。
慧春尼は即座に「とてもおやすい御用です。但しお互いに僧の身の上なので、世間並みにデートすることもできない。あなたと会いたい場所は甚だ険難な場所なので、あなたは約束通り来て思いを遂げることができないでしょう」と意味深な返事を書いた。
了庵禅師が上堂して、一山の全員が集まって水を打ったように静まっているところに、突然衣を脱いで素っ裸になった慧春尼が出てきて、ラブレターの男性を指さして、「約束は守るから、さあ今ここで、さあさあ。」と招く。
禅師も師匠もあっけにとられたが、かの男性は、脱兎の如く山を逃げ出した。
この脱俗ぶりは、臨済の同僚の普化もびっくりだが、臨済も普化のことをやりすぎだとなじったことがあるが、なぜ普化がそうなのかをちゃんと理解していた。
一方慧春尼は、周囲に彼女のことを理解してくれる同じ境涯の人物がいなかったようだ。つきまとって修行の邪魔になるストーカー僧はいたが。兄も今一つだったようだ。
さて最乗寺山門前の大岩に薪が山と積み上げられた。慧春尼は、自ら周りの薪に火をつけ、薪の中央に坐った。
これにうろたえたのか、兄の了庵は、「熱いか、熱いか。」などとわかりきったことを問うのに対し、彼女は「冷熱は生道心にはわからぬ」と。・・・・最後まで誰も彼女のことをわからなかった。
同じ火定では、霍山の景通禅師は、仰山との問答が残っている人だが、正午に自ら蝋燭をとって薪の上に上り円光相を示し、紅炎の中に降魔の勢いを示したという。
甲州恵林寺の快川禅師が、山門楼上で織田信長に焼かれて、「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」と云ったのは、受動的に火に焼かれたものであり、上記2例とは異なるように思う。
華亭の船子和尚は、悟りを得た弟子をゲットできたので、自分で船を転覆させて死んだ。
これらは、死にざまを自由にするということだが、生死を超えるという本来の意味は、死にざまだけのことではないだろう。