◎只管打坐へ
クリシュナムルティの文脈の続き。
さて思考は恐怖を生み出す。
思考とは記憶に対する反応であるがゆえに、思考とは常に古いものである。だから恐怖もまた古い。古いものであるので、人は自分で恐怖を見つめることができる。
こうしてクリシュナムルティは、社会的地位獲得への原動力が恐怖であり、恐怖の原因が思考と記憶という古く過ぎ去ったものであることに行き着いた。
恐怖をモチベーションとする行動はヒステリックなものであり、こうした偏執的な動機を避け、人としてまともに生きるには、恐怖を持たないことが条件となる。クリシュナムルティは、恐怖を持たない心は、心が完全かつ全体的なものとして現在に生きる場合に実現するとする。
ただし、これを理解するには、『思考と記憶と時間の構造』を知的な理解や言葉による理解でなく、全身全霊で理解せねばならぬという。
思考は物事を断片化するが、恐怖を断片化せず、分析せず、恐怖を恐怖のままに恐怖全体として見る。だが、心が恐怖を全体として見れるのは、一切の思考作用が存在しない時だけである。
こうして平静さと敏感さのうちに理解を深めていき、あなた自身が恐怖そのものになった時恐怖は消え去り、
偏執狂的な社会的地位獲得への努力はやむ。
クリシュナムルティは、知的理解ではない全身全霊の理解、全体的な理解といっているが、この方法論とか心構えの説明を読むと、只管打坐に酷似していることに気がつく人も多いのではないだろうか。
クリシュナムルティは、身心脱落にして恐怖がなくなるといっているようなのだが、身心脱落ではなく、『全身全霊での理解』というような、とりあえずわかるような用語を用いたために、晩年、誰も自分のやったことをわかってくれなかったみたいなことになったのだろうか。
クリシュナムルティの文脈の続き。
さて思考は恐怖を生み出す。
思考とは記憶に対する反応であるがゆえに、思考とは常に古いものである。だから恐怖もまた古い。古いものであるので、人は自分で恐怖を見つめることができる。
こうしてクリシュナムルティは、社会的地位獲得への原動力が恐怖であり、恐怖の原因が思考と記憶という古く過ぎ去ったものであることに行き着いた。
恐怖をモチベーションとする行動はヒステリックなものであり、こうした偏執的な動機を避け、人としてまともに生きるには、恐怖を持たないことが条件となる。クリシュナムルティは、恐怖を持たない心は、心が完全かつ全体的なものとして現在に生きる場合に実現するとする。
ただし、これを理解するには、『思考と記憶と時間の構造』を知的な理解や言葉による理解でなく、全身全霊で理解せねばならぬという。
思考は物事を断片化するが、恐怖を断片化せず、分析せず、恐怖を恐怖のままに恐怖全体として見る。だが、心が恐怖を全体として見れるのは、一切の思考作用が存在しない時だけである。
こうして平静さと敏感さのうちに理解を深めていき、あなた自身が恐怖そのものになった時恐怖は消え去り、
偏執狂的な社会的地位獲得への努力はやむ。
クリシュナムルティは、知的理解ではない全身全霊の理解、全体的な理解といっているが、この方法論とか心構えの説明を読むと、只管打坐に酷似していることに気がつく人も多いのではないだろうか。
クリシュナムルティは、身心脱落にして恐怖がなくなるといっているようなのだが、身心脱落ではなく、『全身全霊での理解』というような、とりあえずわかるような用語を用いたために、晩年、誰も自分のやったことをわかってくれなかったみたいなことになったのだろうか。