◎人は本来仏である
白隠禅師はとても感激性であって、とてもフランクだった。ちょっとした悟りの都度、慢心を起こしたが、坐禅にはまじめに取り組み続けたからこそ大悟何回、小悟数知れずとなった。
いわゆる最終解脱したかどうかは怪しいところもあるが、日本の禅の中興の立役者の一人ではある。戦乱のない時代にいかにまじめに坐るモチベーションアップさせたか、その手腕には見るべきものはあったと思う。
『白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず』
冒頭、我々は皆仏であると、道元なら『修証一如、坐禅しているその姿が仏である』と唱えているのと同じことを説く。本当にそうならば、坐禅修行の必要はあるのかということになるのだが、
これに引き続いて全く逆のことを言う。
悟りと無明、仏と凡夫、水と氷、富裕と貧困を対置して、デュアリティでありながら、ノン・デュアリティであると、世間一般の常識とは正反対のことをまず置く。
(続く)
白隠禅師はとても感激性であって、とてもフランクだった。ちょっとした悟りの都度、慢心を起こしたが、坐禅にはまじめに取り組み続けたからこそ大悟何回、小悟数知れずとなった。
いわゆる最終解脱したかどうかは怪しいところもあるが、日本の禅の中興の立役者の一人ではある。戦乱のない時代にいかにまじめに坐るモチベーションアップさせたか、その手腕には見るべきものはあったと思う。
『白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず』
冒頭、我々は皆仏であると、道元なら『修証一如、坐禅しているその姿が仏である』と唱えているのと同じことを説く。本当にそうならば、坐禅修行の必要はあるのかということになるのだが、
これに引き続いて全く逆のことを言う。
悟りと無明、仏と凡夫、水と氷、富裕と貧困を対置して、デュアリティでありながら、ノン・デュアリティであると、世間一般の常識とは正反対のことをまず置く。
(続く)