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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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スワミ・ラーマの「何でも欲しいものを上げよう」

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◎神はさりげなく、前からそこにいたように

『ヒマラヤ聖者 最後の教え(上・下)/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』は非常に示唆に富む本だった。

メジャー覚者の侍者が書いた本は、時にはずれなことがあるのだが、この本の著者は、スワミ・ラーマの侍者であり、相当にわかっている人間であるせいか、大変ためになる本であった。

印象に残った部分がある。

ある日ヒマラヤのアシュラムの部屋で、スワミ・ラーマは、3人の弟子に対して『何でも希望するものを与える』と伝えた。すると著者も含め3人とも、スワミ・ラーマの前では本当に希望するものが物質化、現実化するのを何度も目撃しているせいか、あるいはそういう展開は自分の修行の妨げになることをよく知っているせいか、結局3人とも希望を言い出さなかった。

そこでスワミ・ラーマは、弟子3人を三角形に立たせた。その部屋の中央に布で覆ったあるものを弟子へのプレゼントとして与えた。その布をとるとババジ由来の聖なるヤントラ(冥想用神聖幾何学図)だった。

のちにスワミ・ラーマがこれを評して、部屋の隅に3人立たせてドラマチックに演出してプレゼントしたから、印象的に記憶しているのではないか。何も演出せずにさりげなく日常の挙措の中で渡したら同じようにありがたみに気が付くかどうかと疑問だというようなことを言っていた。

世に奇蹟好きは多く、その典型が宝くじだったりギャンブルだったりする。そういうのを当てるのは奇蹟かもしれない。また病気をスピリチュアル・パワーで治してもらうのも奇蹟かもしれない。

だが、毎日三度食事が食べられることやペットで手軽にドリンクが飲めることも、何気ないことだが、それすらも神仏のたまものである。それに気づいているのかとスワミ・ラーマは問うている。

マスコミや商業主義の悪影響か、昨今些細なことでも演出すればありがたく思われ感動を呼ぶみたいなことが盛んに言われる。

感動感謝を期待して何かを与えるのでは、その時点でプレゼントへのお返しは成立する。右の手でやっていることを左の手が知っていてはならないのである。

さらに自分が生きていることすらも自分の意志でどうにでもなるようなことでもない、一つの奇蹟・・・・。

スワミ・ラーマは演出したことをことさらに解説して、わかって欲しかったのだ。


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