◎死者もゾンビもまとめて救う
バイオハザード:ザ・ファイナルでは、最後は、主人公が、自分が死ぬことによって人類の絶滅を回避する。
多くの人は、自分の肉体死によっては人類の絶滅は回避できない。ただしすべての人は、自我が死ぬことによって、人類の絶滅を回避することすらできる。
ここが映画と現実の相違するポイント。
一人の肉体死で、人類の絶滅が回避されるのであれば、代価としては安いものだ。その証拠に毎日何十万人か何百万人が亡くなっているが、この世の地獄絵図は一向になくなってはいない。
バイオハザード・シリーズのまずいところは、感染してゾンビ化した人間には何の人格も認められておらず、物と同等の扱いであるところ。ゾンビを殺戮するのは悪ではないという発想は、すべての生物無生物をいとおしむ慈しむという愛の対極にある。
一寸の虫にも五分の魂、ゾンビにも相応の魂があるが、感染した途端に人格を認めないのは、新幹線事故で新幹線を埋めちゃった国のような発想が仄見える。
だからバイオハザード・シリーズは、地獄に始まり、地獄に終わる。今の物質文明は人を天国に導く手段ではなく、一貫して地獄のままだが、自分を捨てることができれば、一筋の光明が見えるというのは、教訓といえば教訓である。
立替立直しの直前には、地獄の釜も開き、死者もまとめて面倒を見てもらえるというが、この映画ではゾンビも死者も打ち捨てられたままである。
こういう発想では、仇敵を殺害するのではなく、「言向け和す(ことむけやわす)」という鳥獣虫けらから石ころまで救いとりましょうという発想は理解できないかもしれない。
※霊界物語には、地獄の釜を開いて、地獄に苦しんでいた神人多数を地上に発出するというビジョンがある。
『これは、野立彦命は世の立替へ、立直しの先駆として、まづ世に落ちたる正しき神を一度に岩戸を開き、地獄の釜の蓋を開いて救ひたまひ、世界改造の神種と為し給うたる最も深遠なる御経綸である。』
(霊界物語 第5巻 第4篇 救世の神示から引用)
バイオハザード:ザ・ファイナルでは、最後は、主人公が、自分が死ぬことによって人類の絶滅を回避する。
多くの人は、自分の肉体死によっては人類の絶滅は回避できない。ただしすべての人は、自我が死ぬことによって、人類の絶滅を回避することすらできる。
ここが映画と現実の相違するポイント。
一人の肉体死で、人類の絶滅が回避されるのであれば、代価としては安いものだ。その証拠に毎日何十万人か何百万人が亡くなっているが、この世の地獄絵図は一向になくなってはいない。
バイオハザード・シリーズのまずいところは、感染してゾンビ化した人間には何の人格も認められておらず、物と同等の扱いであるところ。ゾンビを殺戮するのは悪ではないという発想は、すべての生物無生物をいとおしむ慈しむという愛の対極にある。
一寸の虫にも五分の魂、ゾンビにも相応の魂があるが、感染した途端に人格を認めないのは、新幹線事故で新幹線を埋めちゃった国のような発想が仄見える。
だからバイオハザード・シリーズは、地獄に始まり、地獄に終わる。今の物質文明は人を天国に導く手段ではなく、一貫して地獄のままだが、自分を捨てることができれば、一筋の光明が見えるというのは、教訓といえば教訓である。
立替立直しの直前には、地獄の釜も開き、死者もまとめて面倒を見てもらえるというが、この映画ではゾンビも死者も打ち捨てられたままである。
こういう発想では、仇敵を殺害するのではなく、「言向け和す(ことむけやわす)」という鳥獣虫けらから石ころまで救いとりましょうという発想は理解できないかもしれない。
※霊界物語には、地獄の釜を開いて、地獄に苦しんでいた神人多数を地上に発出するというビジョンがある。
『これは、野立彦命は世の立替へ、立直しの先駆として、まづ世に落ちたる正しき神を一度に岩戸を開き、地獄の釜の蓋を開いて救ひたまひ、世界改造の神種と為し給うたる最も深遠なる御経綸である。』
(霊界物語 第5巻 第4篇 救世の神示から引用)