◎カラーナからアストラルそして現実へ
すべての次元には神とコンタクトする手段・機会がある。まず神の次元があって、カラーナの次元があって、アストラルの次元がある。そして現実の次元がある。すべてのものはこれら諸次元を有する。
だから人は、他人をカラーナの次元で見て、同じ人をアストラルの次元で見て、現実の次元で見るというようなことができる。
すべてのものも同様に各次元をもつ。ところがこれらは個別性、分断を認める世界であって、世界は一つながりのもの、牛がいなくなっていつのまにか人だけになっている(禅の十牛図 第七忘牛存人)という真実の世界も広がっている。
これは、一気あるいはアートマン、宇宙卵などといろいろな呼ばれ方があるが、これなくして分断された個別性の次元を語ってしまうと、見方を誤る。
世界は一つながりだが、その諸相は転変化々して、そこで感じ取られる幸福というものは永続せず、肉体はいつか滅び、最愛の愛人にはいつか別れる時が来るし、寵愛を一身に受けたペットにも去る時が来る。
これをして、個人は諸行無常、諸法無我を見て、現実は夢まぼろしであることを実感する(空性)。
出来事、ものは、カラーナの次元で具現し、アストラルの次元で実体化し、そうして現実の世界で具体化する。
最終戦争、世の大峠、立替立直し、最後の審判も実現するときも、そういうプロセスを履むので、ある日突然に起きるものではない。だからそれは遠くから、以前から見える。
だから黙示録も『聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』と徐々に到来するイメージである。
すべての次元には神とコンタクトする手段・機会がある。まず神の次元があって、カラーナの次元があって、アストラルの次元がある。そして現実の次元がある。すべてのものはこれら諸次元を有する。
だから人は、他人をカラーナの次元で見て、同じ人をアストラルの次元で見て、現実の次元で見るというようなことができる。
すべてのものも同様に各次元をもつ。ところがこれらは個別性、分断を認める世界であって、世界は一つながりのもの、牛がいなくなっていつのまにか人だけになっている(禅の十牛図 第七忘牛存人)という真実の世界も広がっている。
これは、一気あるいはアートマン、宇宙卵などといろいろな呼ばれ方があるが、これなくして分断された個別性の次元を語ってしまうと、見方を誤る。
世界は一つながりだが、その諸相は転変化々して、そこで感じ取られる幸福というものは永続せず、肉体はいつか滅び、最愛の愛人にはいつか別れる時が来るし、寵愛を一身に受けたペットにも去る時が来る。
これをして、個人は諸行無常、諸法無我を見て、現実は夢まぼろしであることを実感する(空性)。
出来事、ものは、カラーナの次元で具現し、アストラルの次元で実体化し、そうして現実の世界で具体化する。
最終戦争、世の大峠、立替立直し、最後の審判も実現するときも、そういうプロセスを履むので、ある日突然に起きるものではない。だからそれは遠くから、以前から見える。
だから黙示録も『聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』と徐々に到来するイメージである。