◎死後の審判以後の謎
少なくとも中有まではマンツーマン輪廻でないと理解しがたい仔細もある。それが、全生涯のパノラマ的回顧である。
チベット死者の書は、死に行く人向けの書であるせいか、いかにもマンツーマン輪廻っぽく書いてある。
以下のチベット密教の高僧ソギャル・リンポチェの説明では、全生涯のパノラマ的回顧は、死後の中有における審判の場でも起きるし、生前にも臨死体験や、スカイダイビングなどの危機に際しても起きる。
ただし微妙な表現かも知れないが、連続した複数生涯のパノラマ的回顧のことは聞かないので、全生涯のパノラマ的回顧は、その乗り物たる単独ボディの記憶であって、マンツーマン輪廻転生の証拠ではないように思われる。
死後の審判では、生前の善業、悪業の結果により行く先が振り分けられるが、その先がどのようになってこの世に再誕されるのかは詳細な説明が、なぜか行われてはいない。それこそが、マンツーマン輪廻かどうかというキーポイントであるのだが。
乗り物たるボディというが、今般の肉体がそのまま輪廻の主体となるわけではないので、個性のあるコーザル体、メンタル体、アストラル体のいずれかがマンツーマン輪廻転生の主体と考えられる。(アートマンは全体であり、ニルヴァーナは無なので個性はない。)
それらの微細ボディでの輪廻というのはとても理解しやすいが、真相は微細ボディにおいては、一対一輪廻であるとは限らず、一が多になったり、多が一になったりするし、人の来世は必ずしも人間であるわけでもないのだろう。
その辺のヒントは、OSHOの説などの他に古代ギリシアの変身物語系に落とされている可能性があるように思われる。
『審判
バルドの記述のあるものは、「審判の場」を描写している。世界の数多くの文化のなかに見受けられる死後の裁きにも似た「全生涯のパノラマ的回顧」の一種である。
あなたの良心の象徴である白い善神があなたの弁護人となり、生前にあなたがなした善行の数々を数えあげる。逆にあなたのやましい心の象徴である黒い鬼が、あなたの罪の告発者となる。善行、悪行は白と黒の小石で数える。
審判を司る閻魔王は、カルマを映しだす鏡に諮って審判を下す(第二十章参照。またチベットの民族歌劇ラモにもこうした場面が見られる)。
この審判の場は、臨死体験の「全生涯のパノラマ的回顧」と興味深い相似があるように思える。究極的には、審判はすべからく自分の心のなかで行なわれるものなのだ。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身である。
レイモンド・ムーディは『続・かいまみた死後の世界』(評論社)において以下のように述べている。「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受けいれてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行なわれるということだ」
臨死体験をしたある女性はケネス・リングにこう告げている。「あなたの人生を見せつけられるのです。――――そして裁くのはあなた自身なのです・・・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」(『霊界探訪』三笠書房)
この審判の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻みこんだ潜在力や習癖の力から逃れるすべはないことを示している。これはわたしたちが今世だけでなく来世や来々世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味する。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P470-471から引用)
このように審判は今生の評価であって、その後の行く先の振り分けではない。
単純にそれだけを見ると、マンツーマン輪廻転生の材料ではない。
だが、いつからいつまでが、個人である一であって、いつからが多になるのかという座標を検討する重要な材料であると思う。
ここに何が輪廻の主体なのかという疑問と、同一個性による輪廻転生の始点と終点はどこかという二つの疑問が出てくる。
そこでまず何が輪廻の主体かを見ていく。
◎エクスタシス 夢の夢なる-37
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-26
◎マンツーマン輪廻への疑義-5
少なくとも中有まではマンツーマン輪廻でないと理解しがたい仔細もある。それが、全生涯のパノラマ的回顧である。
チベット死者の書は、死に行く人向けの書であるせいか、いかにもマンツーマン輪廻っぽく書いてある。
以下のチベット密教の高僧ソギャル・リンポチェの説明では、全生涯のパノラマ的回顧は、死後の中有における審判の場でも起きるし、生前にも臨死体験や、スカイダイビングなどの危機に際しても起きる。
ただし微妙な表現かも知れないが、連続した複数生涯のパノラマ的回顧のことは聞かないので、全生涯のパノラマ的回顧は、その乗り物たる単独ボディの記憶であって、マンツーマン輪廻転生の証拠ではないように思われる。
死後の審判では、生前の善業、悪業の結果により行く先が振り分けられるが、その先がどのようになってこの世に再誕されるのかは詳細な説明が、なぜか行われてはいない。それこそが、マンツーマン輪廻かどうかというキーポイントであるのだが。
乗り物たるボディというが、今般の肉体がそのまま輪廻の主体となるわけではないので、個性のあるコーザル体、メンタル体、アストラル体のいずれかがマンツーマン輪廻転生の主体と考えられる。(アートマンは全体であり、ニルヴァーナは無なので個性はない。)
それらの微細ボディでの輪廻というのはとても理解しやすいが、真相は微細ボディにおいては、一対一輪廻であるとは限らず、一が多になったり、多が一になったりするし、人の来世は必ずしも人間であるわけでもないのだろう。
その辺のヒントは、OSHOの説などの他に古代ギリシアの変身物語系に落とされている可能性があるように思われる。
『審判
バルドの記述のあるものは、「審判の場」を描写している。世界の数多くの文化のなかに見受けられる死後の裁きにも似た「全生涯のパノラマ的回顧」の一種である。
あなたの良心の象徴である白い善神があなたの弁護人となり、生前にあなたがなした善行の数々を数えあげる。逆にあなたのやましい心の象徴である黒い鬼が、あなたの罪の告発者となる。善行、悪行は白と黒の小石で数える。
審判を司る閻魔王は、カルマを映しだす鏡に諮って審判を下す(第二十章参照。またチベットの民族歌劇ラモにもこうした場面が見られる)。
この審判の場は、臨死体験の「全生涯のパノラマ的回顧」と興味深い相似があるように思える。究極的には、審判はすべからく自分の心のなかで行なわれるものなのだ。裁かれるのが自分なら、裁くのも自分自身である。
レイモンド・ムーディは『続・かいまみた死後の世界』(評論社)において以下のように述べている。「興味深いことに、わたしが調査したケースでは、審判はいずれにせよ人々を愛し、受けいれてくれる神によってなされるのではなく、個々人の内部で行なわれるということだ」
臨死体験をしたある女性はケネス・リングにこう告げている。「あなたの人生を見せつけられるのです。――――そして裁くのはあなた自身なのです・・・・・・あなたがあなた自身を裁くのです。これまであなたは自分が犯したすべての罪を許してきました。でも、すべきことをしなかったという罪、生前に行なったに違いないごく些細な不正行為をすべて許すことができますか?あなたは自分の罪を許せますか?これが審判です」(『霊界探訪』三笠書房)
この審判の場は、最終的には個々の行為の裏にある動機にいたるまで問われること、過去の行為、言葉、考えとそれらが刻みこんだ潜在力や習癖の力から逃れるすべはないことを示している。これはわたしたちが今世だけでなく来世や来々世にまでも逃れ得ない責任を有していることを意味する。』
(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ/講談社P470-471から引用)
このように審判は今生の評価であって、その後の行く先の振り分けではない。
単純にそれだけを見ると、マンツーマン輪廻転生の材料ではない。
だが、いつからいつまでが、個人である一であって、いつからが多になるのかという座標を検討する重要な材料であると思う。
ここに何が輪廻の主体なのかという疑問と、同一個性による輪廻転生の始点と終点はどこかという二つの疑問が出てくる。
そこでまず何が輪廻の主体かを見ていく。
◎エクスタシス 夢の夢なる-37
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-26
◎マンツーマン輪廻への疑義-5