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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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天皇の不死性

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◎善と悪、晴れと穢れの結婚

天皇の不死性というのは、天皇の万世一系のビジョンの裏返しであると思う。天皇が何代か生前譲位を繰り返した際に、形式的には天皇は不死だったから天皇の不死性が伝説化したという説は、いささか怪しいのではないかと思う。

来るべき神主主義の時代は、あるいは出口王仁三郎流にいえば、みろくの世は、人間社会は181位階に区分される。トップは大神であり、人間のトップは天皇ということになろうか。

この時人間は、その位階という観点からは平等ではないが、ユニークであり、各人が神を知り、初等教育から神を知る冥想法が手ほどきされ、万人が神を知っている社会にあっては、人間としての尊さに上下などない。

そうした時代を予告するシンボリックな出来事としては、イエスが弟子の足を洗った事件などがある。

かつて運動部・体育会では、後輩が先輩に絶対服従であり、先輩のパワハラは当たり前だった。もっとも違法かどうかは別にして、それが本来の自然から来るものかどうかということの方が本質ではある。イエスは、先輩が後輩の足を洗って見せ、次の時代の作法を示した。

社会と精神というのは、180度方向性が異なる。俗社会のトップは南面し、精神・聖性部門のトップは北面する。

平安時代の宮中の伝統であるケガレを忌むというのは、(ケガレを悪と見た場合)善を行い悪をしないという原理においては徹底していないが、世俗のトップであるからにはそのような暗黒面の忌避というのは当然だったのだろう。

死はケガレの代表格であり、その点でもケガレという考え方はアポロン的、光明一辺倒といえる。その延長線に天皇の不死性という考え方が見える。

さらに仏教が入ってきてからは、天皇は十善の君とも呼ばれ前世で十の善行を積んだから天皇として転生してきたという考え方があった。

だがインドの説話にも同様の積善積徳を前世でたっぷり積んだ人物が王として転生したが、王を2、3回やったら積んだ徳を消費しきってしまったというのがある。
積徳とその消費・利用というのは、そのようにやはり俗界の考え方である。

さはさりながら、古事記では、ケガレた冥界から帰還した素戔嗚尊が、天照大御神と誓いを交わすということで、ケガレをもハレをも超越した「穢れと晴れの結婚」を実現し、新時代のありかたを表現する。実質的な意味で天照大御神が素戔嗚尊の足を洗ったのだ。

※十善:殺さない。盗まない。不倫しない。嘘をつかない。中身の無い言葉を話さない。乱暴な言葉を使わない。他人を仲違いさせるようなことを言わない。むさぼらない。怒らない。誤った見方をしない。

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