◎柳生宗矩の親友
沢庵は、徳川家光が心酔していた大徳寺の禅僧。出身地が但馬出石で山形県上山も流罪の地として知られる。
堺の南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)に、大悟し、印可された。慶長十四年には、大徳寺の住職になったが、紫野の仏法世を救う仏法に非ずと唱え、3日で住職をやめた。5年後に大阪冬の陣が起こる。
1620年彼は出石に帰り、前後13年くらいぶらぶらしている時期がある。この時期は、いわゆる悟後の長養ではなく、本人の説明も単に閑を楽しんでいるわけではないというが、はっきりは理由を書いていない。
長期間ぶらぶらしていたのに、家光が江戸に巨刹東海寺を立てて沢庵を迎え、頻繁に沢庵を訪問したのは、家光の禅への帰依が厚かったからではあるまい。
勝海舟の沢庵評は、要するに幕府の隠密僧だから全国行脚したというようなもの。柳生宗矩が自分で全国を回るわけにはいかないから沢庵に回らせた。
勝海舟というポジションだからわかる見方なのだろう。
また、このブログでは、沢庵の文章も見てみたことがあるが、意外に理屈っぽく、至道無難のような突き抜けた感じは受けなかった。
沢庵とは、政僧ではあったが、高僧ではなかった印象を受ける。
沢庵は、徳川家光が心酔していた大徳寺の禅僧。出身地が但馬出石で山形県上山も流罪の地として知られる。
堺の南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)に、大悟し、印可された。慶長十四年には、大徳寺の住職になったが、紫野の仏法世を救う仏法に非ずと唱え、3日で住職をやめた。5年後に大阪冬の陣が起こる。
1620年彼は出石に帰り、前後13年くらいぶらぶらしている時期がある。この時期は、いわゆる悟後の長養ではなく、本人の説明も単に閑を楽しんでいるわけではないというが、はっきりは理由を書いていない。
長期間ぶらぶらしていたのに、家光が江戸に巨刹東海寺を立てて沢庵を迎え、頻繁に沢庵を訪問したのは、家光の禅への帰依が厚かったからではあるまい。
勝海舟の沢庵評は、要するに幕府の隠密僧だから全国行脚したというようなもの。柳生宗矩が自分で全国を回るわけにはいかないから沢庵に回らせた。
勝海舟というポジションだからわかる見方なのだろう。
また、このブログでは、沢庵の文章も見てみたことがあるが、意外に理屈っぽく、至道無難のような突き抜けた感じは受けなかった。
沢庵とは、政僧ではあったが、高僧ではなかった印象を受ける。