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インドの真言密教の方向性

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◎意識の努力と無意識の行

仏教学者中村元の語るインドの真言密教の方向性。

この文には、密教すなわちクンダリーニ・ヨーガが支配的な社会にはどんなことが起こりがちなものであるかを想像させる材料が描かれている。

それは、利他行のような善行を行い、悪いことをしないように平素から努力し、冥想修行を行う(六波羅蜜)ということをやらなくなりがちであるということ。

その結果、諸尊を念じたり、マントラを誦し、密教の特別な儀式を一生懸命やることで、即身成仏を狙うことのほうに比重が置かれがちになることがわかる。

つまり日常生活上の意識的努力でなく、観想や発声や儀式による無意識の操作という心的努力がメインになっていくということである。

この方向性には、いろな弊害があるが、即身成仏に成功すれば結局問題はなくなる。勿論布施、持戒、忍耐などの意識的努力の修行形態にも弊害はつきまとうのだから、六波羅蜜の修行の側の方が一方的に優れているなどと断言することはできない。

しかしこの文が示すインド真言密教=クンダリーニ・ヨーガの特徴性は、今後の文明の形態にかかわってくるクリティカル・イシューとして無視することはできない。

『超世俗性と欲望の肯定

当時インド一般に苦行が呪術的効果をもたらすものであると考えられていたので、呪術性を重んじる真言密教は禁欲的修行を説いていることもある。

たとえば、断食についていう。
観自在菩薩の前で地で壇をつくり、その壇の中で「或いは三日或いは七日断食し、結跏趺坐」することを説く。
また「酒肉五辛を食わず」というのを理想とした。『不空羂索陀羅尼儀軌経』上にも同様の規定が述べられている。

こういう禁欲的特徴は日本の真言密教にも継承されている。

しかしインドの真言密教は他の方向に発展した。
若干の密教聖典によると、従来の大乗仏教のように六波羅蜜の実践に不断の努力をなす必要はない。
従来の大乗仏教においては、やがて聖者となるべき求道者(bodhisattva 菩薩)は六つの完全な美徳(paramita波羅蜜)の修行に不断の努力を払わなければならない。利他行の実践に倦んではならないという。

しかし、密教においては、このような困難な実践を必要としない。衆生は本来仏性を具有している。だから仏となるには、そのように困難な実践窮行を必要としない。人々は、諸尊を念じ、陀羅尼を誦し、密教の特別な儀式にあずかることによって容易に究極の境地に達し、仏となることができるという(即身成仏)。

したがって現世の幸福・快楽を承認する。人間の煩悩・情欲は克服・抑圧されるべきではなくて、尊重されるべきである。不純な愛欲を一切衆生にたいする慈悲にまで高めればよい。

人間が持っているあらゆる情欲を何らはばまれることなく、完全に実現することのうちに善の行為が存する。

煩悩を肯定する思想は、当時の俗信にたいする妥協とあいまって、卑猥な儀礼を導き入れる危険性があった。

一部の密教徒は、男女の性的結合を絶対視するタントラの宗教(Tantrism)の影響を受けて左道密教を成立させた。タントラの宗教とは、性力派(シャークタ Sakta)ともよばれ、シヴァ教の一派であるが、男女のセックスの力を重視するのである。

密教では仏との神秘的な合一状態を達成するのであるが、しばしば性的結合のを比喩をもってそれが説かれた。また諸仏・諸菩薩には妃(明妃)がいると考えられた。

行者と仏との合一を、男女の愛欲になぞらえて説くという特徴は、密教の諸経典についてみられるが、『理趣経』の場合にはとくに顕著である。』
(現代語訳大乗仏典 密教経典・他/中村元/東京書籍P208−209から引用)







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