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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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ペットを可愛がるのをペット本人はどう思っているか

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◎人道的とは何か

出口王仁三郎が、ペットを可愛がることについて、可愛がられている本人の立場でコメントしている。

これによるとペットを可愛がるというのは、形式上動物愛護ではあるが、ペット本人の立場から見れば、ペットとしての人生修行の目的を果たしえないために、虐待のようなものだとしている。

『動物愛護について

一切のものは輪廻転生の理によつて形を現はして居る。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現はれて居る、故に動物は向上して人間に生れかはらうとの希望をもつて居るものである。

愛護されて居る動物、虐使されて居る動物、一見甚だ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、其修行を経ねば向上する事が出来ないやうに出来て居るのであるから、人間が殊更に愛護すると言ふ事になれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生れ来て、修行の仕直しをせねばならぬ事になる。

故に形から見れば愛護であつても、其霊性から考へると一種の虐待になる。今日の世の中は動物愛護よりも、神の生宮たる人間で畜生道に堕ちやうとする危険のものが沢山あるから、この方を救うてやることが、より急務である。動物愛護会などは形に囚はれたる偽善である。如何となれば多くの人はそれを食物にしようとして居るから。』(月鏡/出口王仁三郎から引用)

要するにペットだって、ペット人生を全うし、早く人間に転生したいのだから、ペットとして飼われるというのは、今生で人間に転生できるチャンスをふいにし、もう一度ペット人生をやらなければならないというひどい仕打ちであるということ。

この出口王仁三郎の見方は、野良猫、野良犬保護をされている人々からみれば、とんでもない見方でもあるし、多数のペットを飼っている人から見ても甚だ残念な見方でもある。

だが、一切衆生が仏になることを待っている釈迦牟尼。

出口王仁三郎もつれづれに子猫と戯れている歌を詠んでいる。出口王仁三郎だってペットを虐待しましょうなどと言っているわけではない。

人間それぞれに天命があり、ペットにもそれぞれ天命がある。生も人生だが、死も人生の一部。生も死もまとめて見れる立場、大神の立場でもってこういうことが初めて言えるのであって、俗人が単純にこの言葉だけを見ると無用の反発がある。

古事記に日に千人殺すが日に千五百人産むというやりとりがあるが、そういった種類のことと思う。


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