◎進士陳堯咨が前世のヒントをもらう
唐末から宋にかけて陳搏(ちんはく)という仙人がいた。
その弟子に陳堯咨という者がいて、進士の試験に合格して、陳搏に挨拶にきたところ、その座に一人の道人がいて、彼を見て「南庵、南庵」と呼んだ。道人が去ってから、陳堯咨は、師に南庵というのはどういう意味かと問うと、陳搏はいずれ自分でわかるとし、答えなかった。その道人は鍾離権であった。
後に陳堯咨が閔中に行き、ふとある村を通りかかると、そこの婦人が一人の子供に「南庵に行って父を迎えに行ってきなさい」と言いつけているところに出くわした。その婦人に南庵とは何かと問うと、一つの廃れた伽藍に案内され墓を見ると南庵主人という人物の逝去日が書いてあった。その日は、陳堯咨の出生月であり、自分は南庵の生まれ変わりであると悟ったという。
それにしても鍾離権はほのめかししか言ってくれないのは、前世を知るということの軽重は、自分自身で能動的に知るべきことなのだろうと思う。
易占というものがあるが、現状の自分の周辺の事物はすべてほのめかしであり、将来のサインであり得る。筮竹を用いなくても。
あるものをきっかけに自分をのぞき込むとはそういうことなのだろうと思う。他人に言われるのでなく、自分で覗き込むのだ。
唐末から宋にかけて陳搏(ちんはく)という仙人がいた。
その弟子に陳堯咨という者がいて、進士の試験に合格して、陳搏に挨拶にきたところ、その座に一人の道人がいて、彼を見て「南庵、南庵」と呼んだ。道人が去ってから、陳堯咨は、師に南庵というのはどういう意味かと問うと、陳搏はいずれ自分でわかるとし、答えなかった。その道人は鍾離権であった。
後に陳堯咨が閔中に行き、ふとある村を通りかかると、そこの婦人が一人の子供に「南庵に行って父を迎えに行ってきなさい」と言いつけているところに出くわした。その婦人に南庵とは何かと問うと、一つの廃れた伽藍に案内され墓を見ると南庵主人という人物の逝去日が書いてあった。その日は、陳堯咨の出生月であり、自分は南庵の生まれ変わりであると悟ったという。
それにしても鍾離権はほのめかししか言ってくれないのは、前世を知るということの軽重は、自分自身で能動的に知るべきことなのだろうと思う。
易占というものがあるが、現状の自分の周辺の事物はすべてほのめかしであり、将来のサインであり得る。筮竹を用いなくても。
あるものをきっかけに自分をのぞき込むとはそういうことなのだろうと思う。他人に言われるのでなく、自分で覗き込むのだ。