◎言葉、葦芽(あしかび)、一条の黒ずんだ焔
宗教的な気分が高まったり、哲学的にものを考え始めると、世界を創造したのは誰かなどと考えだす。聖書では始めに言葉ありき、古事記では世界の始めに葦芽があったとし、ユダヤ教のゾーハルでは一条の黒ずんだ焔だなどという。
そこでは、世界は自分と分離していて、世界の変遷を見ている自分がいて、世界の創造と終わりを「目撃」する。
だが、それは本当なのだろうか。
世界には始めもなく終わりもなく、今ここが展開しているだけなのではなかったのか。
誰も世界を創造せず、世界はいつでもあり続けている。世界は時間のない世界で変転しつつ最初からあった。
世界が体験ではなく、自分と世界が融合一致するシチュエイションを自証するところで、世界は最初からあったのだ。道元のいう修証一如とは、この辺だろう。
それが体験であるうちは大したことはない。体験とはいえない体験とはそういうことなのだろう。
宗教的な気分が高まったり、哲学的にものを考え始めると、世界を創造したのは誰かなどと考えだす。聖書では始めに言葉ありき、古事記では世界の始めに葦芽があったとし、ユダヤ教のゾーハルでは一条の黒ずんだ焔だなどという。
そこでは、世界は自分と分離していて、世界の変遷を見ている自分がいて、世界の創造と終わりを「目撃」する。
だが、それは本当なのだろうか。
世界には始めもなく終わりもなく、今ここが展開しているだけなのではなかったのか。
誰も世界を創造せず、世界はいつでもあり続けている。世界は時間のない世界で変転しつつ最初からあった。
世界が体験ではなく、自分と世界が融合一致するシチュエイションを自証するところで、世界は最初からあったのだ。道元のいう修証一如とは、この辺だろう。
それが体験であるうちは大したことはない。体験とはいえない体験とはそういうことなのだろう。