◎死の不安と意識の裂け目をふさぐ努力
死にかけている人は、例の死の受容のステップにあるように、初期段階では、死と葛藤する。その葛藤の中で、残された時間が少ない中で、何かをものすごくしたいという衝動に駆られることがある。
不安とは、凍りついた恐怖のこと。その恐怖を内部で押し殺すことで不安の内的圧力は増大し、動作はせかせか、緊張は高まり何が刺激があると極めて敏感に即時に反応しがちで、呼吸も心拍も上がる。
人類を何十回も全滅できる核兵器が世界じゅうにはりめぐらされ、それを知っていたり、管理したりする人たちの恐怖が、集合的無意識経由で大衆に感知されて漠然とした不安となる。人類は、予期せぬ誰かの核の一撃をきっかけにプログラムで定められたように核で全面反撃し、ある日突然自殺できるのだと内心知っている。
人類を洗脳する手法は、共産主義国において無辜の自国民を何十年も洗脳し続けたノウハウの蓄積に加え、資本主義国でもマスコミ、商業宣伝、薬物の発達でサブリミナルな洗脳が日常的に大規模に行われ続けている。
大衆の耳も目も開けさせたままで、24時間膨大な商業、政治、社会、宗教プロパガンダを流し続けることで、立ち止まって考える心理的余裕を与えないことにより、宣伝で期待される行動を取るようにしむけていく。
要するに意識の隙間を感知できないように人を無感覚にし続けることなのだが、この手法には大きな弊害がある。プロパガンダのないわずかな時間帯に不安のエネルギーは、ストレスとなって亢進するのだが、その症状が急速で激化しやすいということ。キレやすくなるのだ。
いまや人は携帯、スマホを持ち、ますます目と耳を洗脳用AVに晒す時間を稠密にさせている。かくして隙間がわずかとなり、行き場を失った大衆の膨大な心的エネルギーは、スーパー台風などの異常気象を現出したり、映画ジョーカーのように、低所得であって失うものが何もなくて、何が正しいかどうかわからなくなって、殺人したり暴動したりすることに共感するようになり得る。
金もなく、心をほとんどハイジャックされれば、人は暴発するしかないだろう。
どつき漫才は、いまやパワハラ芸と名を変えたが、TVのお笑いの半数はパワハラ芸。芸人は笑いを取る商売だが、人に素行を嗤われるのもマスコミの商売ネタとなった感がある。このように他人を慈しまない心理は、「苦しむのもまんざらではない」という自虐的心理の延長ではあるが、それは倒錯的ではあると思う。
真の愛なき時代は、民主主義という名の下に大衆の心的成熟を醸成してきた。組織宗教の終わりの時代、この民主主義主力の時代はいつまでもつのだろうか。
日々冥想を。
死にかけている人は、例の死の受容のステップにあるように、初期段階では、死と葛藤する。その葛藤の中で、残された時間が少ない中で、何かをものすごくしたいという衝動に駆られることがある。
不安とは、凍りついた恐怖のこと。その恐怖を内部で押し殺すことで不安の内的圧力は増大し、動作はせかせか、緊張は高まり何が刺激があると極めて敏感に即時に反応しがちで、呼吸も心拍も上がる。
人類を何十回も全滅できる核兵器が世界じゅうにはりめぐらされ、それを知っていたり、管理したりする人たちの恐怖が、集合的無意識経由で大衆に感知されて漠然とした不安となる。人類は、予期せぬ誰かの核の一撃をきっかけにプログラムで定められたように核で全面反撃し、ある日突然自殺できるのだと内心知っている。
人類を洗脳する手法は、共産主義国において無辜の自国民を何十年も洗脳し続けたノウハウの蓄積に加え、資本主義国でもマスコミ、商業宣伝、薬物の発達でサブリミナルな洗脳が日常的に大規模に行われ続けている。
大衆の耳も目も開けさせたままで、24時間膨大な商業、政治、社会、宗教プロパガンダを流し続けることで、立ち止まって考える心理的余裕を与えないことにより、宣伝で期待される行動を取るようにしむけていく。
要するに意識の隙間を感知できないように人を無感覚にし続けることなのだが、この手法には大きな弊害がある。プロパガンダのないわずかな時間帯に不安のエネルギーは、ストレスとなって亢進するのだが、その症状が急速で激化しやすいということ。キレやすくなるのだ。
いまや人は携帯、スマホを持ち、ますます目と耳を洗脳用AVに晒す時間を稠密にさせている。かくして隙間がわずかとなり、行き場を失った大衆の膨大な心的エネルギーは、スーパー台風などの異常気象を現出したり、映画ジョーカーのように、低所得であって失うものが何もなくて、何が正しいかどうかわからなくなって、殺人したり暴動したりすることに共感するようになり得る。
金もなく、心をほとんどハイジャックされれば、人は暴発するしかないだろう。
どつき漫才は、いまやパワハラ芸と名を変えたが、TVのお笑いの半数はパワハラ芸。芸人は笑いを取る商売だが、人に素行を嗤われるのもマスコミの商売ネタとなった感がある。このように他人を慈しまない心理は、「苦しむのもまんざらではない」という自虐的心理の延長ではあるが、それは倒錯的ではあると思う。
真の愛なき時代は、民主主義という名の下に大衆の心的成熟を醸成してきた。組織宗教の終わりの時代、この民主主義主力の時代はいつまでもつのだろうか。
日々冥想を。