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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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ネガティブ予言下の半生と厭世と

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◎それでも事上磨錬

禅家は言う。この身このままでも何の不足があるのかと。それは、個なる人間は必ず死ぬものであり、いつ死ぬかわからぬ不安定な日常である。また自分の力で髪の毛一本白くも黒くもできない無力さの延長線の上で、何の不足もないと言っているところがクリティカル。

禅語録をみると、その訓練は、不条理から逃げない訓練、絶望の訓練であって、自分が生きることに何の解決もないところを勘所としている。だから戦争から帰って来て寺に入ってきた青年に対し住職が寺の修行は物足りないでしょうなどと言う。

白隠だって幼少時、地獄が怖くて震えていたところから始まっている。

地獄の恐怖、人間として生きることの絶望と無力感、厭世、ネガティブ予言で引き起こされる将来への不安には、すべて共通の根っこがある。

私が、最初にネガティブ予言を見たのは五島勉のノストラダムスの大予言だった。その次の衝撃のネガティブ予言は、大学の図書館で閲覧した大本神諭だった。

世の中には、実際にこうしたネガティブ予言の影響で、すっかり実業から手を引いた人もいなくはないし、ましてや30年以上の住宅ローンなどは恐ろしくて借りれない。

聖書だって、その日人々は飲み喰い娶りなどしていたなどと、ソドムとゴモラの人々の先見性のなさをあざ笑うが、先見性のある人が多くなったとしても、その町から逃げ出す人が多くなるだけのことだったのではないか。

またネガティブ予言を基本とする教団では、消極的退嬰的人生観の人が増えるものである。

だからといって、理由もなく空元気がまともというわけでもない。

だが、聖者は、『老少不定』と『いまここ』について、その二つのバランスという表現はとらないものだ。二重の現実という言い方をするものだ。それが、この世はドリームでもあり、リアルでもあり、ということ。

全体としては、思い切りこねまわした文章に見えるが、冥想修行者の人生観とは、そのようなものだと思う。

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