◎準備あるいは資格は軽視されがち
悟り、覚醒とは、大雑把に言えば、メンタル体ベースからの脱魂・脱身のこと。急速に起こるのが身心脱落、緩慢に起こるのがクンダリーニ上昇。
よって、この世なるものの悲喜劇を超克あるいは超脱しようと思う者は、まずはその脱魂・脱身のテクニックを学ぼうとしがちである。
だが、聖者・覚者が、わりに控えめに描く部分が、その『準備』のこと。準備のできていないものがその術やマントラやテクニックにトライしたとしても、廃人になったり死亡したり、人生を棒に振ることになりがちである。
『準備』ができているとは、資格があるということ。
たとえば南イラクに残るマンダヤ教は実は古代のナザレ教であり、イエスはナザレ教徒だったらしい。ところが意外やナザレ教は、グノーシスの一派だった云々(封印のイエス/クリストファー・ナイト)。これは、イエスは、カトリックのテクニックで悟ったのか、グノーシスのテクニックで悟ったのか、の方に軸足を置いた言説。準備の方にはあまり関心を持たれていない。
過去2千年、宗教リーダーがいる組織宗教が、同時代において若干名の覚者を保有し続け、それが組織宗教を維持延命させてきた。それは、人間の個我の目覚めと自我意識の拡大と絶望・不条理に導く培土であり続けてきた。それら組織宗教では、覚醒に至るメソッドは、数えるほどだが、それでも輩出する覚者の数については多くを期待されなかったので、それでよかった。
だが、今や個人の意識の拡大は宇宙大に広がり、個人対個人の意識の相克は、近親の相克にまで普通に現れるほどになっている。
これをもって意識の準備はできつつあると見る。一方肉体も覚醒時には脳をやられがちなのだが、覚醒に耐えうる肉体に進化してきた。
だが意識が覚醒の準備ができつつあるということは、自意識が危機に瀕しているということでもある。発狂か自殺か悟りかのいずれかの瀬戸際にいるということである。
準備とは人間として正統な成熟を遂げるということ。それができていないのに、脱身とか脱魂とかクンダリーニ上昇をチャレンジするのは、神仏に叩き落されるというのはありそうなことである。
悟り、覚醒とは、大雑把に言えば、メンタル体ベースからの脱魂・脱身のこと。急速に起こるのが身心脱落、緩慢に起こるのがクンダリーニ上昇。
よって、この世なるものの悲喜劇を超克あるいは超脱しようと思う者は、まずはその脱魂・脱身のテクニックを学ぼうとしがちである。
だが、聖者・覚者が、わりに控えめに描く部分が、その『準備』のこと。準備のできていないものがその術やマントラやテクニックにトライしたとしても、廃人になったり死亡したり、人生を棒に振ることになりがちである。
『準備』ができているとは、資格があるということ。
たとえば南イラクに残るマンダヤ教は実は古代のナザレ教であり、イエスはナザレ教徒だったらしい。ところが意外やナザレ教は、グノーシスの一派だった云々(封印のイエス/クリストファー・ナイト)。これは、イエスは、カトリックのテクニックで悟ったのか、グノーシスのテクニックで悟ったのか、の方に軸足を置いた言説。準備の方にはあまり関心を持たれていない。
過去2千年、宗教リーダーがいる組織宗教が、同時代において若干名の覚者を保有し続け、それが組織宗教を維持延命させてきた。それは、人間の個我の目覚めと自我意識の拡大と絶望・不条理に導く培土であり続けてきた。それら組織宗教では、覚醒に至るメソッドは、数えるほどだが、それでも輩出する覚者の数については多くを期待されなかったので、それでよかった。
だが、今や個人の意識の拡大は宇宙大に広がり、個人対個人の意識の相克は、近親の相克にまで普通に現れるほどになっている。
これをもって意識の準備はできつつあると見る。一方肉体も覚醒時には脳をやられがちなのだが、覚醒に耐えうる肉体に進化してきた。
だが意識が覚醒の準備ができつつあるということは、自意識が危機に瀕しているということでもある。発狂か自殺か悟りかのいずれかの瀬戸際にいるということである。
準備とは人間として正統な成熟を遂げるということ。それができていないのに、脱身とか脱魂とかクンダリーニ上昇をチャレンジするのは、神仏に叩き落されるというのはありそうなことである。