◎見性と体験とは言えない体験
戦前までの禅僧らの悟り体験を描いた『「悟り体験」を読む/大竹晋/新潮選書』。これを見ると、禅家では見性とさらに深まる真如との合一がある。さらに言えば、自分では悟ったと吹聴しているが実は到達していないケースや、見性だけにおわって真如との合一すなわち身心脱落に至っていないケースがあることがわかる。
臨済宗復興の祖の白隠だって、小悟数知れず、大悟〇回などと数えている。
これに対しOSHOバグワンは、見性、見仏、見性は、まとめて一瞥と称し「見ただけ」と最初の段階であることを強調し、神仏道との合一とは別であると、明確である。七つの身体論からすれば当然の見分けと言える。
禅でも十牛図があって、見性が第三図、真如との合一が第八図とちゃんとわかってはいる。
禅家でも、江戸初期の至道無難は、見性だけでは、仮免許みたいなものだとしている。禅家でも見性だけで足りると思っているわけではない。そこで十把ひとからげに「悟り体験」と言ってもね。
また本当の大悟にあっても社会との適応時間が必要であることを大燈国師の京都鴨川での長年の乞食生活などで証している。
禅語録では、主にどういう禅問答をしたら悟ったのかとか、どういう動作をしていたら悟ったかを描いている。
だが真の悟りは死と隣り合わせ。この本では、悟りから戻って来てその悟り体験を語った言葉を並べている。
OSHOバグワンは、大悟では脳をやられるので、9割方は生還してもその体験は語り得ない人だと言っている。
それを語っているということは、まずそれが本当の大悟なのか疑うべきなのだろう。そして体験である悟りであるうちは本物ではない。
体験とは言えない体験だけが真実。それがタロットの吊るされた男の姿。十牛図第十図で歩く男は逆立ちしているのだ。
戦前までの禅僧らの悟り体験を描いた『「悟り体験」を読む/大竹晋/新潮選書』。これを見ると、禅家では見性とさらに深まる真如との合一がある。さらに言えば、自分では悟ったと吹聴しているが実は到達していないケースや、見性だけにおわって真如との合一すなわち身心脱落に至っていないケースがあることがわかる。
臨済宗復興の祖の白隠だって、小悟数知れず、大悟〇回などと数えている。
これに対しOSHOバグワンは、見性、見仏、見性は、まとめて一瞥と称し「見ただけ」と最初の段階であることを強調し、神仏道との合一とは別であると、明確である。七つの身体論からすれば当然の見分けと言える。
禅でも十牛図があって、見性が第三図、真如との合一が第八図とちゃんとわかってはいる。
禅家でも、江戸初期の至道無難は、見性だけでは、仮免許みたいなものだとしている。禅家でも見性だけで足りると思っているわけではない。そこで十把ひとからげに「悟り体験」と言ってもね。
また本当の大悟にあっても社会との適応時間が必要であることを大燈国師の京都鴨川での長年の乞食生活などで証している。
禅語録では、主にどういう禅問答をしたら悟ったのかとか、どういう動作をしていたら悟ったかを描いている。
だが真の悟りは死と隣り合わせ。この本では、悟りから戻って来てその悟り体験を語った言葉を並べている。
OSHOバグワンは、大悟では脳をやられるので、9割方は生還してもその体験は語り得ない人だと言っている。
それを語っているということは、まずそれが本当の大悟なのか疑うべきなのだろう。そして体験である悟りであるうちは本物ではない。
体験とは言えない体験だけが真実。それがタロットの吊るされた男の姿。十牛図第十図で歩く男は逆立ちしているのだ。