◎出会うものをみな殺し
道元禅師の師匠の天童如浄の清凉寺語録から
『無文道璨禅客が上山した折の上堂。
璨禅客は金剛の宝剣を真赤に燃えた炉の中に入れて、楊岐のいう三本足の驢馬を練り上げるすばらしいはたらきの持ち主である。
禅客は到るところの道場を戦場として出会うものをみな殺しにして戦い、その跡にはどくろが入りまじって血がどす黒くべたついている。』
(天童如浄禅師の研究 鏡島 元隆/著 春秋社P186から引用)
※楊岐のいう三本足の驢馬とは、仏のこと。
禅僧と禅僧同士のやりとりは、誠に真剣勝負であって、常に一瞬の油断も隙も許されない。とは言えここまで凄惨残虐な表現をとることは珍しい。
出会うものをみな殺しにするとは、そこまでの覚悟で戦わないと逆に殺されるということなのだろう。
只管打坐とは、背後に死の影が常にくっついていることをひしひしと感じさせられる。
だからこそ、近道とか乾いた道などと称されるのだろう。ハード・ボイルドである。情け無用。
道元禅師の師匠の天童如浄の清凉寺語録から
『無文道璨禅客が上山した折の上堂。
璨禅客は金剛の宝剣を真赤に燃えた炉の中に入れて、楊岐のいう三本足の驢馬を練り上げるすばらしいはたらきの持ち主である。
禅客は到るところの道場を戦場として出会うものをみな殺しにして戦い、その跡にはどくろが入りまじって血がどす黒くべたついている。』
(天童如浄禅師の研究 鏡島 元隆/著 春秋社P186から引用)
※楊岐のいう三本足の驢馬とは、仏のこと。
禅僧と禅僧同士のやりとりは、誠に真剣勝負であって、常に一瞬の油断も隙も許されない。とは言えここまで凄惨残虐な表現をとることは珍しい。
出会うものをみな殺しにするとは、そこまでの覚悟で戦わないと逆に殺されるということなのだろう。
只管打坐とは、背後に死の影が常にくっついていることをひしひしと感じさせられる。
だからこそ、近道とか乾いた道などと称されるのだろう。ハード・ボイルドである。情け無用。