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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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人間は見かけは平等ではないが、平等である

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◎平等不平等を問題にしない

本物のスピリチュアルでは、人間は見かけは平等ではないが、平等である。こうした代表的な見方は、魂の成熟度あるいは精神の成熟度という考え方に見られる。人間の大悟覚醒の可能性を個人別に考えれば、そのような見かけの不平等は当然のように見える。

その延長線上に社会、国家の爛熟度の相違というのはある。先進国では大衆精神の爛熟度が進み覚醒が問題になりやすいが、中国、アフリカなど発展途上国では爛熟度はさほどでもないということ。

それと、チベット密教などでいう、人間は生まれる前にバルドに居て無数の男女のセックス・シーンを眺めるのだが、そこで再誕する子宮を決める。普通の人は、あっという間に決まるが、聖者と大悪人は何百年も決まらない。これも人間の不平等を当然とした見方。ただし聖者が、なべて釈迦のように王族として物質的に安楽な人生を選び取ってくるわけではなく、おそらく半数以上が、物質的にも家族的にも不条理に出会うような厳しい境涯を選んでくるのではないか。

また古事記、霊界物語に見られる人類の181位階。頂点にあるのは大神。これぞ不平等の極みである。

こうした状況は、共産主義の、人間は平等に物質で満足するという根本思想とは相容れないものである。

OSHOバグワンが、人間の生死流転からの解放とは何かと問われた。それに対し彼は、生死流転からの解放とは、あなたが二度と生まれてこないということではなくて、もはやあなたが来ることも行くこともないということだ、と答えている(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシP193)。平等だとか不平等だとかを問題にしていない。

大悟覚醒とは、個が全体に進むことだが、クンダリーニ・ヨーギ本山博は個が破れて、全体の圧倒的な巨大なエネルギーが小さな個に流れ込んで来るというような表現をとる(神秘体験の種々相ⅡP163)。全体がすべてである世界において、平等とか、不平等はない。

平等、不平等にこだわっているうちは、まだまだ山の頂上は遠く、麓のあたりを歩いているのだろう。


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