◎花屋日記から
芭蕉が臨終に近いある日、支考、乙州など、弟子たちがお見舞いに集まっていた。去来が芭蕉の具合を計って、芭蕉に「古来より有名な師匠は、ほとんど臨終に際して辞世の句を残すものです。「これほどの名匠の辞世はなかったのではないか」などと、世に言う者があるものです。師匠も見事に一句を残されたならば、諸門人の願いが叶うでしょう。」
これを聞いた芭蕉、
「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世。私の生涯で言い捨て置いた句はいずれも辞世である」と仰った。
更に
『あらゆる存在は本よりこのかた、常に寂滅の相(姿)を示す』これは釈尊の辞世にして、彼一代の仏教はこの一句以外にはない。
『古池や蛙とび込む水の音』
この句に我が一風を興したからこそ初めて辞世がある。その後百千の句を吐いたが、このつもりでなかったものはない。ここを以って、句々辞世でないものはない」と仰った。(花屋日記から)
こうして眺めてみると、芭蕉とその場に集まった門弟の間には恐ろしく距離がある。去来も不合格。森川許六が少々及第に近い程度か。
禅僧臨済が臨終の床で、弟子の禅僧三聖を嘆くシーンが思い起される。
だが、「およそ芸道は、「それ」をなぞるのみ」という俗言があるが、逆に仕事で言えば、事上磨錬として精密に仕事をこなし続けることで「それ」に至る道もあるということがある。だから芸道だからダメなどということはない。
芭蕉が臨終に近いある日、支考、乙州など、弟子たちがお見舞いに集まっていた。去来が芭蕉の具合を計って、芭蕉に「古来より有名な師匠は、ほとんど臨終に際して辞世の句を残すものです。「これほどの名匠の辞世はなかったのではないか」などと、世に言う者があるものです。師匠も見事に一句を残されたならば、諸門人の願いが叶うでしょう。」
これを聞いた芭蕉、
「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世。私の生涯で言い捨て置いた句はいずれも辞世である」と仰った。
更に
『あらゆる存在は本よりこのかた、常に寂滅の相(姿)を示す』これは釈尊の辞世にして、彼一代の仏教はこの一句以外にはない。
『古池や蛙とび込む水の音』
この句に我が一風を興したからこそ初めて辞世がある。その後百千の句を吐いたが、このつもりでなかったものはない。ここを以って、句々辞世でないものはない」と仰った。(花屋日記から)
こうして眺めてみると、芭蕉とその場に集まった門弟の間には恐ろしく距離がある。去来も不合格。森川許六が少々及第に近い程度か。
禅僧臨済が臨終の床で、弟子の禅僧三聖を嘆くシーンが思い起される。
だが、「およそ芸道は、「それ」をなぞるのみ」という俗言があるが、逆に仕事で言えば、事上磨錬として精密に仕事をこなし続けることで「それ」に至る道もあるということがある。だから芸道だからダメなどということはない。