◎極楽浄土移住者からの一通のメール
世に南無阿弥陀仏のマントラが唱えられない日はない。南無阿弥陀仏のマントラを唱えさえすれば、死後に百万種類もある霊的世界(辺地浄土など)を通過して、その最奥の極楽浄土に到着して、そこで蓮華の台に載って、グルメもファッションも豪邸も思いのままになるのだから、絶対他力の安心が大切。
紙に書いた南無阿弥陀仏でも円空の素朴な木像でも、それを無我無心に信じ切れれば、妙好人のようにすべてがナムアミダブツの世界に入り、何の問題もない。だが現代人は、そこまで一心一徹になれるタイプの気力や観想力がある人は少ないのではないか。
時節熟して、何かわが身に死が迫るような事に出会って、そんな時にも「絶対他力だから助けてもらえる」という信心が揺るがない人はむしろ少ないのではないか。
それが証拠に、「私はナムアミダブツの一句のお蔭で、極楽浄土で楽しく何不自なく暮らしています。」のメール一通たりとも受け取った人などどこにもいない。
だからこそ死後の世界における安楽を現世生活の果報として信じきれない、知性の発達した現代人なら、わが手で地上を天国、極楽とするべく、日々積善し、冥想するというアクティビティ或いはライフ・スタイルにするしかないのではないかと思う。
これは、全体として、メソッドと効果が連動するという功利的発想であって、カルマ・ヨーガ的考え方だが、まともな行法は必ず現世的功利的に見れば、論理破綻しているもの。だからと言って、組織的システム的に財産の相当部分を巻き上げるようなカルトに盲従することはできない。
また一方で、それがカルトなのか真正の宗教なのか、彼が悟った人物なのかそうでない人物なのかを見分けることは、自分が覚醒していない限り判別することはできないという根本的な矛盾がある。
それでも日々冥想を。
世に南無阿弥陀仏のマントラが唱えられない日はない。南無阿弥陀仏のマントラを唱えさえすれば、死後に百万種類もある霊的世界(辺地浄土など)を通過して、その最奥の極楽浄土に到着して、そこで蓮華の台に載って、グルメもファッションも豪邸も思いのままになるのだから、絶対他力の安心が大切。
紙に書いた南無阿弥陀仏でも円空の素朴な木像でも、それを無我無心に信じ切れれば、妙好人のようにすべてがナムアミダブツの世界に入り、何の問題もない。だが現代人は、そこまで一心一徹になれるタイプの気力や観想力がある人は少ないのではないか。
時節熟して、何かわが身に死が迫るような事に出会って、そんな時にも「絶対他力だから助けてもらえる」という信心が揺るがない人はむしろ少ないのではないか。
それが証拠に、「私はナムアミダブツの一句のお蔭で、極楽浄土で楽しく何不自なく暮らしています。」のメール一通たりとも受け取った人などどこにもいない。
だからこそ死後の世界における安楽を現世生活の果報として信じきれない、知性の発達した現代人なら、わが手で地上を天国、極楽とするべく、日々積善し、冥想するというアクティビティ或いはライフ・スタイルにするしかないのではないかと思う。
これは、全体として、メソッドと効果が連動するという功利的発想であって、カルマ・ヨーガ的考え方だが、まともな行法は必ず現世的功利的に見れば、論理破綻しているもの。だからと言って、組織的システム的に財産の相当部分を巻き上げるようなカルトに盲従することはできない。
また一方で、それがカルトなのか真正の宗教なのか、彼が悟った人物なのかそうでない人物なのかを見分けることは、自分が覚醒していない限り判別することはできないという根本的な矛盾がある。
それでも日々冥想を。