◎先入観を徹底的に排する
仏教では、草も木も真理を説くという。
禅僧洞山が師匠の雲巌に質問した。
『洞山「無生物の説法は、どんな人が聞くことができるのでしょうか?」
雲巌「それは、無生物ならば聞くことかできるさ。」
洞山「老師は、それを聞くことができますか?」
雲巌「わしがもしそれを聞けたら、君はわしの姿を見ることはできないだろうよ。」
洞山「それならば、私は老師の説法を聞くことができなくなりますが?」
雲巌「わしの説法すら聞けなくて、どうして無生物の説法を聞くことができよう。
ここで洞山は、長年の疑問が氷解した。
そこで、つぎの詩を作った。
「うれしや、うれしや、無生物が説法をするとは、思いもよらなかった。もしも耳で聴こうとすれば、声はきこえない。眼で声を聞けば、初めて知ることができる」』
ここで洞山は逆立ちしたのだ。眼で聞くとは、先入観を徹底的に排するということだが、排除するということはどういうことなのか、排除すればどうなるかは、余りにも想像を絶したものであるがゆえに、余り書かれてはいない。
十牛図で、牛を発見してから、牛がいなくなるのだが、その辺のことである。
眼で聞く。
出口王仁三郎の短歌二首。
耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず
耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳
仏教では、草も木も真理を説くという。
禅僧洞山が師匠の雲巌に質問した。
『洞山「無生物の説法は、どんな人が聞くことができるのでしょうか?」
雲巌「それは、無生物ならば聞くことかできるさ。」
洞山「老師は、それを聞くことができますか?」
雲巌「わしがもしそれを聞けたら、君はわしの姿を見ることはできないだろうよ。」
洞山「それならば、私は老師の説法を聞くことができなくなりますが?」
雲巌「わしの説法すら聞けなくて、どうして無生物の説法を聞くことができよう。
ここで洞山は、長年の疑問が氷解した。
そこで、つぎの詩を作った。
「うれしや、うれしや、無生物が説法をするとは、思いもよらなかった。もしも耳で聴こうとすれば、声はきこえない。眼で声を聞けば、初めて知ることができる」』
ここで洞山は逆立ちしたのだ。眼で聞くとは、先入観を徹底的に排するということだが、排除するということはどういうことなのか、排除すればどうなるかは、余りにも想像を絶したものであるがゆえに、余り書かれてはいない。
十牛図で、牛を発見してから、牛がいなくなるのだが、その辺のことである。
眼で聞く。
出口王仁三郎の短歌二首。
耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず
耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳