◎生死もしらぬところになをつけて ねはんというも いうばかりなり
バガバッド・ギーターから。大聖クリシュナがアルジュナ王子に語る。
『実習者(ヨーギ)は、人里離れた場所にあって、ただひとり心身を抑制し、期待をいだかず、所有物を捨て、常に自己を修練すべきである。
浄らかな場所で、自分のためにクシャ草、鹿皮、布を順次に敷き重ねた、高くも低くもない、しっかりした座をしつらえ、
その座にすわって、意(マナス)を一点に集中し、心と感覚器官のはたらきを抑制し、自己(個我)を清浄にするために、実習(ヨ―ガ)を行え。
身体、頭、首をまっすぐに、不動に保ち、自分の鼻の先端を凝視して、他の方向に目をやらず、
心を安らかにし、恐怖心を去り、梵行(禁欲)の戒をまもり、意を抑制し、わたしを思念し、わたしに専念して、実習(ヨーガ)を修めてすわらねばならない。
このようにたえず自己(心)の実習を行い、意を統御する実習者(ヨーギ)は、涅槃を極致とし、わたしの中にある寂静に到達する。』(世界の名著1 バラモン経典 原始仏典P166から引用)
これは、坐の基本が『身体、頭、首をまっすぐに、不動に』であり、鼻端を見ることから眼を開ける冥想。一方でクリシュナに帰依しつづけよと。この辺が覚醒した師匠のいない冥想を戒めているところでもある。
涅槃ニルヴァーナを窮極とするのはよいが、寂静と書くとシーンとした静寂が寂静なのかと思ってしまいがちである。
これは皆、言葉で表現できないが、寂静と書いているだけだと読まなければいけないのだろう。
空もひとつの悟りだが、『空』では、涅槃寂静、なにもかもなしには届いていない。
生死即涅槃
生死もしらぬところになをつけて
ねはんといふも いふはかりなり
(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、
涅槃というのはそういうだけのもの)
生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき
(至道無難)
バガバッド・ギーターから。大聖クリシュナがアルジュナ王子に語る。
『実習者(ヨーギ)は、人里離れた場所にあって、ただひとり心身を抑制し、期待をいだかず、所有物を捨て、常に自己を修練すべきである。
浄らかな場所で、自分のためにクシャ草、鹿皮、布を順次に敷き重ねた、高くも低くもない、しっかりした座をしつらえ、
その座にすわって、意(マナス)を一点に集中し、心と感覚器官のはたらきを抑制し、自己(個我)を清浄にするために、実習(ヨ―ガ)を行え。
身体、頭、首をまっすぐに、不動に保ち、自分の鼻の先端を凝視して、他の方向に目をやらず、
心を安らかにし、恐怖心を去り、梵行(禁欲)の戒をまもり、意を抑制し、わたしを思念し、わたしに専念して、実習(ヨーガ)を修めてすわらねばならない。
このようにたえず自己(心)の実習を行い、意を統御する実習者(ヨーギ)は、涅槃を極致とし、わたしの中にある寂静に到達する。』(世界の名著1 バラモン経典 原始仏典P166から引用)
これは、坐の基本が『身体、頭、首をまっすぐに、不動に』であり、鼻端を見ることから眼を開ける冥想。一方でクリシュナに帰依しつづけよと。この辺が覚醒した師匠のいない冥想を戒めているところでもある。
涅槃ニルヴァーナを窮極とするのはよいが、寂静と書くとシーンとした静寂が寂静なのかと思ってしまいがちである。
これは皆、言葉で表現できないが、寂静と書いているだけだと読まなければいけないのだろう。
空もひとつの悟りだが、『空』では、涅槃寂静、なにもかもなしには届いていない。
生死即涅槃
生死もしらぬところになをつけて
ねはんといふも いふはかりなり
(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、
涅槃というのはそういうだけのもの)
生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき
(至道無難)