◎悟りを開いたパートのおばさんが普通にいるようにならないと
もっとお金があればよい、気になる異性と親しくなりたい、もっと出世したい、正規の職につきたいなど、コロナの不景気でいろいろなことを思い巡らすことが多いかもしれない。
想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。
さて私は、神田神保町の書泉グランデ4階を何か月に一回訪問して最近のスピリチュアル出版の動向を定点観測するのが常だった。コロナになって以降、ここ1年ばかりは行けていない。行けば原書房ものぞく。スピリチュアル・コーナーも、いわば永遠である時間のない世界から書かれた著作であれば、大いに歓迎なのだが、そうではない霊界探訪や中間レベルのチャネリングや、眉唾なヒーリング関係が多くて、最新刊といえども関心を引くものは稀である。
要するに、出版点数は相変わらず多いのだが、内容的には沈滞していると感じている。
学者さんの世界には、学閥あり、学会の重鎮の意向があり、政府の方針があり、特に人文系ではそういうバイアスを感じさせられることがあり、宗教書、心理学書、歴史書では、そういう気配を感じさせられることがままある。例の戦前に武烈天皇の事績がひどすぎて公開されていなかった件などは、代表的なものである。
そうした土壌において、以下のような事柄はまともに議論できない。
七つの身体論を基盤とするまともな宗教は基本構造が共通である。(万教同根)
人間には輪廻転生がある。
教祖には、悟った教祖と悟っていない教祖がある。悟っていない教祖でも大教団を組成する例がある。
一神教、多神教、あるいは脱魂型宗教、神懸かり型宗教などという区分があるが、大前提として大神、真の神、仏が包含されている「一人前」の宗教かどうかはほとんど視点として見受けられない。
ユング心理学書を読むと人格の統合が最終的目標と書いてあるのだが、あれだけグノーシスや錬金術書を題材にしているからには、人が神になることが最終的目的のはず。それを広言できないキリスト教社会の恐怖。
一方で、覚者ケン・ウィルバーが学者たちを相手に七つの身体論を公然と振りかざし、議論を継続しているのは、大変な意志力なのだろうと思う。
日本にも悟りを開いた学者は当然として、悟りを開いたコンビニのお兄さんとか、悟りを開いたパートのおばさんが普通にいるようにならないと、至福千年、弥勒の世は近くない。
だが、世の終わりに至るには何段ものステップがあるように、そうなるにも何段かのステップがある。いきなり20XX年X月X日がきたらそうなるというものではない。
もっとお金があればよい、気になる異性と親しくなりたい、もっと出世したい、正規の職につきたいなど、コロナの不景気でいろいろなことを思い巡らすことが多いかもしれない。
想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。
さて私は、神田神保町の書泉グランデ4階を何か月に一回訪問して最近のスピリチュアル出版の動向を定点観測するのが常だった。コロナになって以降、ここ1年ばかりは行けていない。行けば原書房ものぞく。スピリチュアル・コーナーも、いわば永遠である時間のない世界から書かれた著作であれば、大いに歓迎なのだが、そうではない霊界探訪や中間レベルのチャネリングや、眉唾なヒーリング関係が多くて、最新刊といえども関心を引くものは稀である。
要するに、出版点数は相変わらず多いのだが、内容的には沈滞していると感じている。
学者さんの世界には、学閥あり、学会の重鎮の意向があり、政府の方針があり、特に人文系ではそういうバイアスを感じさせられることがあり、宗教書、心理学書、歴史書では、そういう気配を感じさせられることがままある。例の戦前に武烈天皇の事績がひどすぎて公開されていなかった件などは、代表的なものである。
そうした土壌において、以下のような事柄はまともに議論できない。
七つの身体論を基盤とするまともな宗教は基本構造が共通である。(万教同根)
人間には輪廻転生がある。
教祖には、悟った教祖と悟っていない教祖がある。悟っていない教祖でも大教団を組成する例がある。
一神教、多神教、あるいは脱魂型宗教、神懸かり型宗教などという区分があるが、大前提として大神、真の神、仏が包含されている「一人前」の宗教かどうかはほとんど視点として見受けられない。
ユング心理学書を読むと人格の統合が最終的目標と書いてあるのだが、あれだけグノーシスや錬金術書を題材にしているからには、人が神になることが最終的目的のはず。それを広言できないキリスト教社会の恐怖。
一方で、覚者ケン・ウィルバーが学者たちを相手に七つの身体論を公然と振りかざし、議論を継続しているのは、大変な意志力なのだろうと思う。
日本にも悟りを開いた学者は当然として、悟りを開いたコンビニのお兄さんとか、悟りを開いたパートのおばさんが普通にいるようにならないと、至福千年、弥勒の世は近くない。
だが、世の終わりに至るには何段ものステップがあるように、そうなるにも何段かのステップがある。いきなり20XX年X月X日がきたらそうなるというものではない。