◎各自の身体は、キリストの身体の一部である
キリスト教の七つの身体論の根の部分がある。
コリント人への第一の手紙。
『あなたがたは、自らの身体がキリストの身体の一部であることを知らぬのか?
主と結ばれる者は、何人も主と―つの霊である。
(六章十六-十七)』
主なる神とわれらは同体であり、一つである。
『彼らはイエスにいった。では、子供になれば、王国に入れるのですか?
イエスは彼らにいわれた。あなたがたが二つのものを―つにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、そして男と女を―つにするとき・・・・、あなたがたは(王国)に入るでしょう。』
(トマス福音書)
我らは一つになることで、二元であることをやめ、第六身体であるアートマンなる一つになることで、神と合一する。(第六身体であるアートマンは、宗派により、呼び名が変わり、主だったり、仏だったり、道だったりと様々である。)
さらにマイスター・エックハルトは、『神の内にあるすべてのものは一つであり、それについては何も語れない。』『よって神を見い出すため一つになりなさい』、と語る。
ひとつになれば、すべてとなる。それはイエス・キリストだけの秘儀ではない。
『イエスはいわれた。わたしは、彼らすべての上に輝く光である。わたしは、すべてであり、すべてはわたしから生まれ、わたしに獲得された。一片の木を割ってみなさい。私はそこにいる。石をもちあげてごらんなさい。そこにわたしを見い出すでしょう。』
(トマス福音書)
※この部分は異教徒であっても、わたしの一部であるとしている。
すべてとは、第六身体である有のことだから、すべてのすべてである。誰であっても王国に入ることができれば、一つとなり、すべてのすべてとなる。
(参考:意識のスペクトル 1 意識の進化 K・ウィルバー/著 春秋社p86-87)
キリスト教の七つの身体論の根の部分がある。
コリント人への第一の手紙。
『あなたがたは、自らの身体がキリストの身体の一部であることを知らぬのか?
主と結ばれる者は、何人も主と―つの霊である。
(六章十六-十七)』
主なる神とわれらは同体であり、一つである。
『彼らはイエスにいった。では、子供になれば、王国に入れるのですか?
イエスは彼らにいわれた。あなたがたが二つのものを―つにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、そして男と女を―つにするとき・・・・、あなたがたは(王国)に入るでしょう。』
(トマス福音書)
我らは一つになることで、二元であることをやめ、第六身体であるアートマンなる一つになることで、神と合一する。(第六身体であるアートマンは、宗派により、呼び名が変わり、主だったり、仏だったり、道だったりと様々である。)
さらにマイスター・エックハルトは、『神の内にあるすべてのものは一つであり、それについては何も語れない。』『よって神を見い出すため一つになりなさい』、と語る。
ひとつになれば、すべてとなる。それはイエス・キリストだけの秘儀ではない。
『イエスはいわれた。わたしは、彼らすべての上に輝く光である。わたしは、すべてであり、すべてはわたしから生まれ、わたしに獲得された。一片の木を割ってみなさい。私はそこにいる。石をもちあげてごらんなさい。そこにわたしを見い出すでしょう。』
(トマス福音書)
※この部分は異教徒であっても、わたしの一部であるとしている。
すべてとは、第六身体である有のことだから、すべてのすべてである。誰であっても王国に入ることができれば、一つとなり、すべてのすべてとなる。
(参考:意識のスペクトル 1 意識の進化 K・ウィルバー/著 春秋社p86-87)