◎私が味わったことは言えない
十字架の聖ヨハネ詩集から。
『私は知らないで知らぬ処に入り
知らないままに留まった
一切の知を超えて。
何処に入ったか知らない
が、何処に居るのか知らないまま
そこに居たとき
大いなることを悟った
私が味わったことは言えない
知らないままだったのだから
一切の知を超えて。
それは、深い孤独の中で
直接(じか)に悟った
平和と愛との
完璧な知であった
それはあまりにも
密かなことだったから』
(十字架の聖ヨハネ詩集P81から引用)
十字架の聖ヨハネは、平和と愛から『何も知らない』に至った。
1577年には男子カルメル会修道会士によってトレドの修道院に幽閉されたが、1578年8月16日に修道院から脱出した。その後、暗い小部屋での九ヶ月の幽閉生活によって、この境地に至った。
禅者だっていろいろなきっかけで大悟するものだが、幽閉生活や牢獄では、実はそういうことは起きやすいのだろう。未決勾留中に出口王仁三郎が自慰をする話を語っていることをそれとなく読むことがあるかもしれないが、暗にそういう傾向を語っているのだと思う。
十字架の聖ヨハネ詩集から。
『私は知らないで知らぬ処に入り
知らないままに留まった
一切の知を超えて。
何処に入ったか知らない
が、何処に居るのか知らないまま
そこに居たとき
大いなることを悟った
私が味わったことは言えない
知らないままだったのだから
一切の知を超えて。
それは、深い孤独の中で
直接(じか)に悟った
平和と愛との
完璧な知であった
それはあまりにも
密かなことだったから』
(十字架の聖ヨハネ詩集P81から引用)
十字架の聖ヨハネは、平和と愛から『何も知らない』に至った。
1577年には男子カルメル会修道会士によってトレドの修道院に幽閉されたが、1578年8月16日に修道院から脱出した。その後、暗い小部屋での九ヶ月の幽閉生活によって、この境地に至った。
禅者だっていろいろなきっかけで大悟するものだが、幽閉生活や牢獄では、実はそういうことは起きやすいのだろう。未決勾留中に出口王仁三郎が自慰をする話を語っていることをそれとなく読むことがあるかもしれないが、暗にそういう傾向を語っているのだと思う。