◎いつまでか身を徒らになし果てて終の道をば願わざるらん
臨済の四喝は次のようなエピソードだが、これに一休が解説を加えている。
『臨済の四喝
臨済がある僧に問うた
「ある時の一喝は、金剛王の宝剣の如し。
ある時の一喝は、地にうずくまって獲物を狙うライオンの如し。
ある時の一喝は、魚をおびき寄せるような道具の如し。
ある時の一喝は、一喝の働きをしない。
お前は、どのように分かったのか」と。
僧は「えーっ?」とまごついた。
臨済はただちに一喝した。』(臨済録)
一休(一休和尚法語)は、臨済の四喝では、人が臨終した直後に喝を入れるのだが、この意味をわきまえている人は少ないものだ。ただ通り一遍に仏道をわきまえた僧は、これをわが本分に落とし込んで、これをファイナルなものとするが、古人の見方はそうではない。
既に臨済は、命の根は断ち切れない(命根本不絶)と言っているが、まだ悟っていないのに衣の色を黒から黄色に変えたり、布施を受け取ったり、カルマを悪化させているのは悲しむべきことだとする。(この後に百丈野狐の公案の話が続き、やはりカルマはなくせないことを述べる。)
※命根本不絶:出典不詳。
さて命根というと白隠の続遠羅天釜に、本人が命根を裁断しないと悟りは得られない、命根とは、無明、マーヤ、迷いの根源であると述べている(白隠禅師法語全集 第9冊 遠羅天釜 白隠慧鶴/禅文化研究所P143)。
よって命根とは、肉体生命のことでなく、個人の自意識のことであるとわかる。
いずれにしても個なる自意識を死ぬためには、悪行をせず善行をして冥想する。それがカルマを超える道。
禅で、平常心是れ道というが、その平常心とは、いわゆる社会的常識人の「日常」ではなく逆転している。
以下一休の和歌(一休和尚法語)
三日月の満つれば欠けてあともなし
とにかくにまた有明の月
雲の身に思ふ心も空なれば
空と見るこそ本(もと)の空なれ
いつまでか身を徒(いたず)らになし果てて
終(つい)の道をば願わざるらん
臨済の四喝は次のようなエピソードだが、これに一休が解説を加えている。
『臨済の四喝
臨済がある僧に問うた
「ある時の一喝は、金剛王の宝剣の如し。
ある時の一喝は、地にうずくまって獲物を狙うライオンの如し。
ある時の一喝は、魚をおびき寄せるような道具の如し。
ある時の一喝は、一喝の働きをしない。
お前は、どのように分かったのか」と。
僧は「えーっ?」とまごついた。
臨済はただちに一喝した。』(臨済録)
一休(一休和尚法語)は、臨済の四喝では、人が臨終した直後に喝を入れるのだが、この意味をわきまえている人は少ないものだ。ただ通り一遍に仏道をわきまえた僧は、これをわが本分に落とし込んで、これをファイナルなものとするが、古人の見方はそうではない。
既に臨済は、命の根は断ち切れない(命根本不絶)と言っているが、まだ悟っていないのに衣の色を黒から黄色に変えたり、布施を受け取ったり、カルマを悪化させているのは悲しむべきことだとする。(この後に百丈野狐の公案の話が続き、やはりカルマはなくせないことを述べる。)
※命根本不絶:出典不詳。
さて命根というと白隠の続遠羅天釜に、本人が命根を裁断しないと悟りは得られない、命根とは、無明、マーヤ、迷いの根源であると述べている(白隠禅師法語全集 第9冊 遠羅天釜 白隠慧鶴/禅文化研究所P143)。
よって命根とは、肉体生命のことでなく、個人の自意識のことであるとわかる。
いずれにしても個なる自意識を死ぬためには、悪行をせず善行をして冥想する。それがカルマを超える道。
禅で、平常心是れ道というが、その平常心とは、いわゆる社会的常識人の「日常」ではなく逆転している。
以下一休の和歌(一休和尚法語)
三日月の満つれば欠けてあともなし
とにかくにまた有明の月
雲の身に思ふ心も空なれば
空と見るこそ本(もと)の空なれ
いつまでか身を徒(いたず)らになし果てて
終(つい)の道をば願わざるらん