◎華厳経
昔は日光まで東武特急けごんが走っていて、見る度に華厳の滝の華厳とは何かと考えさせられたものだ。
華厳経に、一つの塵の中に無数の国土がその中に存在していて、これらは心の力でできている。かつまたそのあらゆる世界は、宝物だけでできており、それこそが、宇宙全体たる如来身の光明なのだみたいな描写がされている。
仏教というのは、厭世感から来るところの「迷いそのまま」に悟るという見方、つまりマーヤ迷いがあると認める世界があって、他方この華厳経的な何も問題がない世界すべてが無限の光明であるという見方がある。
人は、この二つの世界のあり様を同じ一つの地平に入れて併せて一つの世界だと見たがるのだが、実はその二つは全く別の世界が別々にあるということではないかと思う。二重の現実、二重のリアリティである。
この世界はあらゆる宝だけでできているという世界観は、プラトンのイデア界の見方に似ている。
魂が上昇してイデア界に入れば、そこは真善美しかない世界である。人が洞窟の外に出たとき、初めは目がくらんでなにも見えないが、目が慣れるに従って影では無いもの、そして太陽そのものを知ることができる。それがイデア界。だから最初はイデア界を認知できない云々。
この説明は二重のリアリティには届かないが、そもそも建物も地面も宝石でできているなどという世界を想像させるには、最初はこのような説明から入るものなのだろう。
白隠が法華経のことを当初おとぎ話と感じたのも無理はない。
この世はドリームでもあり、リアルでもあり。
昔は日光まで東武特急けごんが走っていて、見る度に華厳の滝の華厳とは何かと考えさせられたものだ。
華厳経に、一つの塵の中に無数の国土がその中に存在していて、これらは心の力でできている。かつまたそのあらゆる世界は、宝物だけでできており、それこそが、宇宙全体たる如来身の光明なのだみたいな描写がされている。
仏教というのは、厭世感から来るところの「迷いそのまま」に悟るという見方、つまりマーヤ迷いがあると認める世界があって、他方この華厳経的な何も問題がない世界すべてが無限の光明であるという見方がある。
人は、この二つの世界のあり様を同じ一つの地平に入れて併せて一つの世界だと見たがるのだが、実はその二つは全く別の世界が別々にあるということではないかと思う。二重の現実、二重のリアリティである。
この世界はあらゆる宝だけでできているという世界観は、プラトンのイデア界の見方に似ている。
魂が上昇してイデア界に入れば、そこは真善美しかない世界である。人が洞窟の外に出たとき、初めは目がくらんでなにも見えないが、目が慣れるに従って影では無いもの、そして太陽そのものを知ることができる。それがイデア界。だから最初はイデア界を認知できない云々。
この説明は二重のリアリティには届かないが、そもそも建物も地面も宝石でできているなどという世界を想像させるには、最初はこのような説明から入るものなのだろう。
白隠が法華経のことを当初おとぎ話と感じたのも無理はない。
この世はドリームでもあり、リアルでもあり。