◎自己満足の虚しさと恐怖から自己放棄へ
人生は、進学、就職、恋愛、結婚、未婚、老化、老衰と進んで死に至る。だが、青年期だろうが、中年期だろうが、一足早く、死と人生全般の虚無性、不条理に直面せよという、釈迦、イエスらの声にまともに向き合おうとする人は多くはないものだ。
だが、当代のように、条件反射人形のようにスマホを片手に歩く、半人間みたいな人も少なくない一方で、知性の発達により、真剣に死のサイド、滅、衰、老の側や、生そのものの基盤の不安定性に気づいて見つめ考える人がいる。
ダンテス・ダイジのメディテーション・トラベル・ガイドから以下引用。
『二つは比例する
君達の知性と
君達が悲劇の存在を認める度合い
毛虫が終末と思う
その形態
救世主は蝶と名付けた』
知性が発達すればするほど、人生場裡の不条理にどうしても向き合わざるを得ない。たとえ頭の9割がマスコミやスマホから来るところの情報で誤魔化されていたとしても。絶望の極みには蝶となるチャンスもある。
さらに、ダンテス・ダイジの「至福ハンドブック=死とSex」から以下引用。
『(その4)
人が本当に求めているものは何なのであろうか。
人は様々なものを、その欲望の奴隷となって追い求めている。
全面的な満足が欲しいのだ。
だが、自我には断じて全面的満足はあり得ない。
本当のことを言おう。
人は誰でも自我というやっかいなもののドレイから解放されたいのだ。
本当のことを言おう。
人は誰でも自己という重荷を消滅させたいのだ。
(その5)
なぜなら、唯一楽しくなるのは自分が絶対完全無限なそのものであるということに目覚めること
であるからだ。
それを私は仮にエクスタシーと名づけているだけのこと。
女性にとっては全面的な愛情が全てであり、それによって自ずから男性とのSEXがエクスタシー
そのものを開示する。だが男性にとっては、ただ愛情があるというだけではダメなのである。
そこには、さめた知性が必要なのだ。
愛情があればSEXにおいて女性は努力を全く必要としない。
だが男性はある種の努力が必要なのである。
この由に男性の至福への道は、死をかけた何物かを必要とするのである。
男性は一人の女性に対して全面的愛情を感じたとしても、それは一切の問題の解決とはなりえな
いであろう。
それ故、男性は自己の生命を捨ててもいいという風に生きなければ悟り、至福、エクスタシーに
目覚めることはないのだ。
純粋なる坐禅冥想は勿論、全面的な死への道であり、全面的な至福への道であるが、それはごく
限られた人々のものでしかない。
そこで男性は、職業、家庭、友情、使命などに生命をかけねばならないのである。
それらが自己満足としてあるのではなく、自己放棄としてあらねばならない。
つまり、自己満足の虚しさと恐怖の構造を理解して、自己満足ではない、純粋に正しい行為を生
きつづけるのだ。』
自我は、最終ステージでは全面的満足を追い、正しく進めば、自己放棄に至る。
人生は、進学、就職、恋愛、結婚、未婚、老化、老衰と進んで死に至る。だが、青年期だろうが、中年期だろうが、一足早く、死と人生全般の虚無性、不条理に直面せよという、釈迦、イエスらの声にまともに向き合おうとする人は多くはないものだ。
だが、当代のように、条件反射人形のようにスマホを片手に歩く、半人間みたいな人も少なくない一方で、知性の発達により、真剣に死のサイド、滅、衰、老の側や、生そのものの基盤の不安定性に気づいて見つめ考える人がいる。
ダンテス・ダイジのメディテーション・トラベル・ガイドから以下引用。
『二つは比例する
君達の知性と
君達が悲劇の存在を認める度合い
毛虫が終末と思う
その形態
救世主は蝶と名付けた』
知性が発達すればするほど、人生場裡の不条理にどうしても向き合わざるを得ない。たとえ頭の9割がマスコミやスマホから来るところの情報で誤魔化されていたとしても。絶望の極みには蝶となるチャンスもある。
さらに、ダンテス・ダイジの「至福ハンドブック=死とSex」から以下引用。
『(その4)
人が本当に求めているものは何なのであろうか。
人は様々なものを、その欲望の奴隷となって追い求めている。
全面的な満足が欲しいのだ。
だが、自我には断じて全面的満足はあり得ない。
本当のことを言おう。
人は誰でも自我というやっかいなもののドレイから解放されたいのだ。
本当のことを言おう。
人は誰でも自己という重荷を消滅させたいのだ。
(その5)
なぜなら、唯一楽しくなるのは自分が絶対完全無限なそのものであるということに目覚めること
であるからだ。
それを私は仮にエクスタシーと名づけているだけのこと。
女性にとっては全面的な愛情が全てであり、それによって自ずから男性とのSEXがエクスタシー
そのものを開示する。だが男性にとっては、ただ愛情があるというだけではダメなのである。
そこには、さめた知性が必要なのだ。
愛情があればSEXにおいて女性は努力を全く必要としない。
だが男性はある種の努力が必要なのである。
この由に男性の至福への道は、死をかけた何物かを必要とするのである。
男性は一人の女性に対して全面的愛情を感じたとしても、それは一切の問題の解決とはなりえな
いであろう。
それ故、男性は自己の生命を捨ててもいいという風に生きなければ悟り、至福、エクスタシーに
目覚めることはないのだ。
純粋なる坐禅冥想は勿論、全面的な死への道であり、全面的な至福への道であるが、それはごく
限られた人々のものでしかない。
そこで男性は、職業、家庭、友情、使命などに生命をかけねばならないのである。
それらが自己満足としてあるのではなく、自己放棄としてあらねばならない。
つまり、自己満足の虚しさと恐怖の構造を理解して、自己満足ではない、純粋に正しい行為を生
きつづけるのだ。』
自我は、最終ステージでは全面的満足を追い、正しく進めば、自己放棄に至る。