◎老いたる子、白髪の赤子-4
法華経の従地涌出品に「父は少(わか)くして子は老いたる」とある。若い父から年老いた子供ができるということ。法華経では、25歳の仏弟子が百歳の仏弟子を我が子と言うというような輪廻転生しつつ仏道修行を積み重ね、それを前提にすれば、若い父から年老いた子供ができるという言い方ができるというような、とってつけたような話になっている。
禅僧曹山の偈では、
「今年の米が足らない時は(今年田不聚)
来年の籾を食べるしかない。(来年田有期)
年の若い父を慕って (愛他年少父)
なんとしても白髪頭の子を産まなければならない。(須得白頭児)」
法華経に沿って読めば、この人生で大悟覚醒できなければ、来世でも冥想修行を積まねばならない。今生でも来世でも、ひょっとしたら自分より年の若い先輩修行者を師として、なんとかして解脱しなければならない、となる。
法華経の、25歳の修行の完成した菩薩は、白髪の赤子となったとして表現されている。
未来も今も過去もわかるなら、自分も他人も世界全体のこともわかるなら、それが体験とはいえない体験であったなら、白髪の赤子として再誕したと表現するのだろうと思う。
法華経の従地涌出品に「父は少(わか)くして子は老いたる」とある。若い父から年老いた子供ができるということ。法華経では、25歳の仏弟子が百歳の仏弟子を我が子と言うというような輪廻転生しつつ仏道修行を積み重ね、それを前提にすれば、若い父から年老いた子供ができるという言い方ができるというような、とってつけたような話になっている。
禅僧曹山の偈では、
「今年の米が足らない時は(今年田不聚)
来年の籾を食べるしかない。(来年田有期)
年の若い父を慕って (愛他年少父)
なんとしても白髪頭の子を産まなければならない。(須得白頭児)」
法華経に沿って読めば、この人生で大悟覚醒できなければ、来世でも冥想修行を積まねばならない。今生でも来世でも、ひょっとしたら自分より年の若い先輩修行者を師として、なんとかして解脱しなければならない、となる。
法華経の、25歳の修行の完成した菩薩は、白髪の赤子となったとして表現されている。
未来も今も過去もわかるなら、自分も他人も世界全体のこともわかるなら、それが体験とはいえない体験であったなら、白髪の赤子として再誕したと表現するのだろうと思う。