◎ダンテス・ダイジと片岡山の貴人
ダンテス・ダイジが沖縄での修行中か何かに、托鉢での食料も金もなくなり、飢えて元気もなくなり道端で横になるシーンがある。
一方で聖徳太子が片岡山で、大悟したらしき貴人が飢えと寒さで道端で動けなくなっており、これを見た聖徳太子がわが衣をかけてあげ、
「しなてるや片岡山に飯に飢て臥せるその旅人あはれ親なしに汝生りけめやさす竹の君はや無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ」という歌を詠み、翌日人をやって見に行かせると亡くなっていたので、墓を作り葬ったというエピソードがある。
覚者であっても飢えで困窮し、果ては亡くなることもある。覚者にとっては、元気な時期に大悟という体験とは言えない体験を経るが、これをピークの時期と見れば、上の二つは衰亡、わびの時期の例。
「わび」の本来の意味は、「物足らずして一切我意に任せず哀える」ということであり、「不自由」であり「不足」であり「不調」であること。(さび (塙新書)/復本一郎/塙書房P93参照)
ダンテス・ダイジにも片岡山の貴人もわびの相を見せた。人間である限り、聖者だろうがぼんくらだろうが、「わび」の時期を持つ。それは、それを外から見る人にとっては、この世に絶対的なものはないという直観を呼び起こす。「わび」て、空、色即是空に進むのだ。
ダンテス・ダイジが沖縄での修行中か何かに、托鉢での食料も金もなくなり、飢えて元気もなくなり道端で横になるシーンがある。
一方で聖徳太子が片岡山で、大悟したらしき貴人が飢えと寒さで道端で動けなくなっており、これを見た聖徳太子がわが衣をかけてあげ、
「しなてるや片岡山に飯に飢て臥せるその旅人あはれ親なしに汝生りけめやさす竹の君はや無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ」という歌を詠み、翌日人をやって見に行かせると亡くなっていたので、墓を作り葬ったというエピソードがある。
覚者であっても飢えで困窮し、果ては亡くなることもある。覚者にとっては、元気な時期に大悟という体験とは言えない体験を経るが、これをピークの時期と見れば、上の二つは衰亡、わびの時期の例。
「わび」の本来の意味は、「物足らずして一切我意に任せず哀える」ということであり、「不自由」であり「不足」であり「不調」であること。(さび (塙新書)/復本一郎/塙書房P93参照)
ダンテス・ダイジにも片岡山の貴人もわびの相を見せた。人間である限り、聖者だろうがぼんくらだろうが、「わび」の時期を持つ。それは、それを外から見る人にとっては、この世に絶対的なものはないという直観を呼び起こす。「わび」て、空、色即是空に進むのだ。