◎神仏の顔
99.99%の人が神知らぬ時代に神はどう見えているか。
神仏のことをお寺の人に聞いても、ちゃんと答えてくれることはまずないし、神社の人に聞いても、まともな説明をしてくれることもまずない。
一神論、多神論などと分けてみても、祭神たる神の数を数えてもその数えている神とは何でしょうか、神と会話ができるのでしょうかなどと質問が出て来た途端に、黙ってしまうのではないだろうか。
だからと言って、維摩の一黙のように、神とは説明できないから沈黙するのだと、木で鼻をくくったような対応では何も先に進まない。
神仏とは、一円相であって、月のことだから月を指す指は神仏そのものではないと説明されても、神仏のイメージを膨らませる連想もできない。
神仏には二相あって、無なるニルヴァーナと有なるアートマンだが、現代科学でそれを証明する手段はない。個が全に進む、個人が宇宙全体に転換するというか、逆に宇宙全体が個人である自分を呑みこむのが自我の死だが、それは肉体死のことではない。
禅、只管打坐は、生の側から全宇宙である死の側をクリアする。密教、古神道、道教などのクンダリーニ・ヨーガ型冥想では、死の側から生の側をクリアする。われわれ日常生活に生の側はあるが、死の側はないが如く暮らしている。
江戸時代の禅僧至道無難の歌
大道の極意を
ことごとく 死人となりて なりはてて おもひのままに するわざぞよき
ギルガメシュ叙事詩第5章に、これと似た言い回しがある「神々のすまいする山に登る人間はいない。神々の顔を見た者は必ず死ぬ」
これは、死の側に入らないと神々の顔を見れないと言っている。
神仏の顔は、この利己主義全盛の時代に公然と隠されている。こうした世相をして、人類は予定したコースから大きく逸れていると言われるのだろう。