◎瑞の神歌
古事記言霊解の最後に出て来るのが、瑞の神歌。瑞の神歌は例の予言歌瑞能神歌と連動する。
『瑞の神歌
霊幸《たまちは》ふ神の心を高山の
雲霧分けて照せたきもの
日の光り昔も今も変らねど
東の空にかかる黒雲
この度の神の気吹《いぶき》の無かりせば
四方の雲霧誰か払はむ
葦原に生ひ繁りたる仇草を
薙払《なぎはら》ふべき時は来にけり
霊主体従《ひのもと》の教を四方に播磨潟
磯吹く風に世は清まらむ』
(霊界物語第10巻第三十一章言霊解五から引用)
世界全体は、昔も今ももとより何の問題もないが、東の空に黒雲がかかっている。この嘆かわしい現状を改善するものは、人間の力によるところでなく、神の力に依らねばならない。それが、神の気吹で四方の黒い雲霧を掃うということ。
今こそ世界に生い茂る雑草を刈り払う時が来たとは、万人が(古神道でいえば)鎮魂帰神の行にて神を知り神を体して生きることで、神の気吹で世の邪悪を一掃するということ。
霊主体従《ひのもと》とは、神の内流を受けた人間が肉体をまとう姿であって、次の時代には万人に霊(微細身)があるという感覚が一般的になっているだろうから、議論の必要なく膚感覚で、微細身があってそれがメイン、肉体はサブ。この時代は、法律も政治も経済も、肉体こそ人間、物質・金こそ先験的に存在するという世界観を前提とするアタマ人間の世界。古代人類はハラ人間だったが、アタマ人間になったのはそう昔のことではない。
そして悪もなく悲しみのない至福千年、千年王国の到来は、日本では、潟の上を吹く穏やかな風として歌われる播磨潟。これは万葉集の千年王国到来の祝い歌、
『桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る』
が意識されている。
※『日の光り昔も今も変らねど 東の空にかかる黒雲』の歌は、当時天皇批判という治安維持法の嫌疑がかけられた部分だが、出口王仁三郎は無罪になっている。また出口王仁三郎は国家神道を嘆かわしいことと見ていた一方で、新時代への移行期における天皇の役割は極めて高く見ている。
古事記言霊解の最後に出て来るのが、瑞の神歌。瑞の神歌は例の予言歌瑞能神歌と連動する。
『瑞の神歌
霊幸《たまちは》ふ神の心を高山の
雲霧分けて照せたきもの
日の光り昔も今も変らねど
東の空にかかる黒雲
この度の神の気吹《いぶき》の無かりせば
四方の雲霧誰か払はむ
葦原に生ひ繁りたる仇草を
薙払《なぎはら》ふべき時は来にけり
霊主体従《ひのもと》の教を四方に播磨潟
磯吹く風に世は清まらむ』
(霊界物語第10巻第三十一章言霊解五から引用)
世界全体は、昔も今ももとより何の問題もないが、東の空に黒雲がかかっている。この嘆かわしい現状を改善するものは、人間の力によるところでなく、神の力に依らねばならない。それが、神の気吹で四方の黒い雲霧を掃うということ。
今こそ世界に生い茂る雑草を刈り払う時が来たとは、万人が(古神道でいえば)鎮魂帰神の行にて神を知り神を体して生きることで、神の気吹で世の邪悪を一掃するということ。
霊主体従《ひのもと》とは、神の内流を受けた人間が肉体をまとう姿であって、次の時代には万人に霊(微細身)があるという感覚が一般的になっているだろうから、議論の必要なく膚感覚で、微細身があってそれがメイン、肉体はサブ。この時代は、法律も政治も経済も、肉体こそ人間、物質・金こそ先験的に存在するという世界観を前提とするアタマ人間の世界。古代人類はハラ人間だったが、アタマ人間になったのはそう昔のことではない。
そして悪もなく悲しみのない至福千年、千年王国の到来は、日本では、潟の上を吹く穏やかな風として歌われる播磨潟。これは万葉集の千年王国到来の祝い歌、
『桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る』
が意識されている。
※『日の光り昔も今も変らねど 東の空にかかる黒雲』の歌は、当時天皇批判という治安維持法の嫌疑がかけられた部分だが、出口王仁三郎は無罪になっている。また出口王仁三郎は国家神道を嘆かわしいことと見ていた一方で、新時代への移行期における天皇の役割は極めて高く見ている。