◎ヨーガ実践者は空虚感を克服して、永遠に充実しているブラフマンに進入合一する
ヨーガ・スートラ1章31『苦痛と憂鬱と肢体の動揺と吸気と呼気とは、〔心の〕散乱に伴うものである。』
これについてヴィヤーサの註解。
『〔ヴィヤーサの註解〕
『苦痛とは、〔i〕自身に由来するものと、〔ii〕外界の生きものに由来するものと、〔iii〕神々に由来するものとがある。苦痛とは、生きものどもがそれに逼迫されていて、または、それを滅するために努力するところのものである。
憂鬱とは、欲求の実現に対する障礙のゆえに、心の動揺することである。
肢体の動揺とは、肢体を動揺させ震動させることである。
吸気とは、外にある風を吸いこむことである。
呼気とは、腹中にある風を外に吐き出すことである。
これらは、心の散乱にともなうものである。すなわち、心の散乱した人には、これらのことが起こるのである。心が精神統一している人には、これらのことは起こらない。
さて、心を散乱させるこれらは精神統一を妨げるから、まさに前述の、反復実修と離欲とによって滅されねばならない。
(中略)
絶対者は空虚なのではない。充実している総体である。したがって、ヨーガ実践者は空虚感を克服して、永遠に充実しているブラフマンに進入合一するのである。』(中村元選集 第24巻ヨーガとサーンキヤの思想/中村元/春秋社P148-149から引用)
苦痛、憂鬱、震えなどの不随意運動と呼吸をまとめて、原因は心の散乱にあるとして、リラックスから始めて精神統一に進むことでこれらを解消し得ると見ている。
最後の『永遠に充実しているブラフマンに進入合一する』とは、秘儀であって、この注釈者ヴィヤーサも何か確証があって書いたのだろうし、アートマンとブラフマンの違いと関係がわかる者しかこれを書けない。またこの部分はダンテス・ダイジは、アートマンがブラフマンに進入合一するとし、中心太陽とはブラフマンだと述べる。(ニルヴァーナのプロセスとテクニックP100-101)
ヴィヤーサも相当な境地であったことがわかる。
ヨーガ・スートラ1章31『苦痛と憂鬱と肢体の動揺と吸気と呼気とは、〔心の〕散乱に伴うものである。』
これについてヴィヤーサの註解。
『〔ヴィヤーサの註解〕
『苦痛とは、〔i〕自身に由来するものと、〔ii〕外界の生きものに由来するものと、〔iii〕神々に由来するものとがある。苦痛とは、生きものどもがそれに逼迫されていて、または、それを滅するために努力するところのものである。
憂鬱とは、欲求の実現に対する障礙のゆえに、心の動揺することである。
肢体の動揺とは、肢体を動揺させ震動させることである。
吸気とは、外にある風を吸いこむことである。
呼気とは、腹中にある風を外に吐き出すことである。
これらは、心の散乱にともなうものである。すなわち、心の散乱した人には、これらのことが起こるのである。心が精神統一している人には、これらのことは起こらない。
さて、心を散乱させるこれらは精神統一を妨げるから、まさに前述の、反復実修と離欲とによって滅されねばならない。
(中略)
絶対者は空虚なのではない。充実している総体である。したがって、ヨーガ実践者は空虚感を克服して、永遠に充実しているブラフマンに進入合一するのである。』(中村元選集 第24巻ヨーガとサーンキヤの思想/中村元/春秋社P148-149から引用)
苦痛、憂鬱、震えなどの不随意運動と呼吸をまとめて、原因は心の散乱にあるとして、リラックスから始めて精神統一に進むことでこれらを解消し得ると見ている。
最後の『永遠に充実しているブラフマンに進入合一する』とは、秘儀であって、この注釈者ヴィヤーサも何か確証があって書いたのだろうし、アートマンとブラフマンの違いと関係がわかる者しかこれを書けない。またこの部分はダンテス・ダイジは、アートマンがブラフマンに進入合一するとし、中心太陽とはブラフマンだと述べる。(ニルヴァーナのプロセスとテクニックP100-101)
ヴィヤーサも相当な境地であったことがわかる。