◎明鏡止水
荘子もOSHOバグワンも本人の悟境は相当なものだが、弟子の育成にはあまり熱心とは言えない。そうした人物の一人が荘子徳充符篇に出て来る王駘。
覚者ならば、一人でも半人でも後継の覚者を打ち出すことが、絶対的な使命であるように言い慣わすのが常だが、荘子もOSHOバグワンも一休あたりもその点で異端と言えば異端と言えよう。
王駘は、孔子同時代の人物。魯の国にあって、孔子を上回るファンを集めており、孔子の弟子は不思議に思っていた。
王駘は、罪を犯して片足がなくなった人物であって、新興宗教の教祖のように立って講演したり、坐って議論はしない。それであってファン達は、空しく鬱屈した気分で彼の下へ行き、元気で充実した気分で帰って来る(虚にして往き、実にして帰る)。
孔子は、彼について、『生死や天地が覆墜するようなことがあっても彼は動じまい。万物の転変はそのままに万物の中心を守ることができている。だからファンたちは、流水では自分を鑑(み)ることはできないが、彼のような止水では、自分を鑑(み)ることはできるので、非常に彼は人気があるのだ。』と解説する。
孔子は、更に王駘の境地を、万物は一なるアートマンであることを知っていて、吉日を選んで、仙人として天に登るタイミングを待っているとも述べている。
アヴィラのテレサの言うように、奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。それに吉日があるものなのだろうか。
荘子もOSHOバグワンも本人の悟境は相当なものだが、弟子の育成にはあまり熱心とは言えない。そうした人物の一人が荘子徳充符篇に出て来る王駘。
覚者ならば、一人でも半人でも後継の覚者を打ち出すことが、絶対的な使命であるように言い慣わすのが常だが、荘子もOSHOバグワンも一休あたりもその点で異端と言えば異端と言えよう。
王駘は、孔子同時代の人物。魯の国にあって、孔子を上回るファンを集めており、孔子の弟子は不思議に思っていた。
王駘は、罪を犯して片足がなくなった人物であって、新興宗教の教祖のように立って講演したり、坐って議論はしない。それであってファン達は、空しく鬱屈した気分で彼の下へ行き、元気で充実した気分で帰って来る(虚にして往き、実にして帰る)。
孔子は、彼について、『生死や天地が覆墜するようなことがあっても彼は動じまい。万物の転変はそのままに万物の中心を守ることができている。だからファンたちは、流水では自分を鑑(み)ることはできないが、彼のような止水では、自分を鑑(み)ることはできるので、非常に彼は人気があるのだ。』と解説する。
孔子は、更に王駘の境地を、万物は一なるアートマンであることを知っていて、吉日を選んで、仙人として天に登るタイミングを待っているとも述べている。
アヴィラのテレサの言うように、奇蹟には時を選ぶタイプのものと時を選ばないタイプのものがある。それに吉日があるものなのだろうか。