◎52のレベルと見ている自分
佐保田鶴治のヨーガ・スートラの4.29の訳『ヨーギが深智を得てもなんらの欲望をいだかず、あらゆる面の弁別智を知りつくしたならば、法雲三昧の境地が現れる。』(ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社P166から引用)
これは法雲三昧を肯定的な意味で訳しているが、彼は注釈において、訳者によって意味が定まっていないことを述べている。学生の時にこれを読み、ならば真相はどちらにあるのかわからないままにこれを書いているのかと驚いたものだ。そんなこんなでインドに行こうとする動機を持つ人がいても不思議はないと思ったものだ。
これに対しグレゴール・メーレやOSHOバグワンは、雲を否定的な意味にとる。
『4.29永続的な識別知の中において、瞑想から得たどんなものからも自分自身を切り離せば、雲という特質を散り散りにするサマーディに入る。』
(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスPXVから引用)』
さて菩薩には、52のレベルがあり、ラスト41から50までを十地と呼ぶ。50番目が法雲で、仏教語大辞典では、智慧の雲があまねく甘露の雨を注ぐ位であって、説法が世界中に真理の雨を降らせるが如くであるとする。
十地経では、法雲レベルの菩薩は、一瞬であらゆる限りない法を受ける力があるのが特徴であるという書きぶりである。法雲三昧という訳はこの辺からの連想なのだろう。
なお、空海は、52レベル中の上から10番目、下から43番目の発光レベルとされる。そのことが意味を持つ人は、最後まで行った人だけではないのだろうか。
そしてサマーディ、三昧の見方だが、基本は自分が残っている三昧と自分が残っていない三昧に分かれる(ニルビカルパとサビカルパ)ということから見始めてよいと思う。
以下は参考です。
四つのサマーディ
最終解脱或いは最終的な解脱
白隠禅師坐禅和讃-4
こころを至上我へ合一させる
自らの自由意志によって死に入ってゆく実験
佐保田鶴治のヨーガ・スートラの4.29の訳『ヨーギが深智を得てもなんらの欲望をいだかず、あらゆる面の弁別智を知りつくしたならば、法雲三昧の境地が現れる。』(ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社P166から引用)
これは法雲三昧を肯定的な意味で訳しているが、彼は注釈において、訳者によって意味が定まっていないことを述べている。学生の時にこれを読み、ならば真相はどちらにあるのかわからないままにこれを書いているのかと驚いたものだ。そんなこんなでインドに行こうとする動機を持つ人がいても不思議はないと思ったものだ。
これに対しグレゴール・メーレやOSHOバグワンは、雲を否定的な意味にとる。
『4.29永続的な識別知の中において、瞑想から得たどんなものからも自分自身を切り離せば、雲という特質を散り散りにするサマーディに入る。』
(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスPXVから引用)』
さて菩薩には、52のレベルがあり、ラスト41から50までを十地と呼ぶ。50番目が法雲で、仏教語大辞典では、智慧の雲があまねく甘露の雨を注ぐ位であって、説法が世界中に真理の雨を降らせるが如くであるとする。
十地経では、法雲レベルの菩薩は、一瞬であらゆる限りない法を受ける力があるのが特徴であるという書きぶりである。法雲三昧という訳はこの辺からの連想なのだろう。
なお、空海は、52レベル中の上から10番目、下から43番目の発光レベルとされる。そのことが意味を持つ人は、最後まで行った人だけではないのだろうか。
そしてサマーディ、三昧の見方だが、基本は自分が残っている三昧と自分が残っていない三昧に分かれる(ニルビカルパとサビカルパ)ということから見始めてよいと思う。
以下は参考です。
四つのサマーディ
最終解脱或いは最終的な解脱
白隠禅師坐禅和讃-4
こころを至上我へ合一させる
自らの自由意志によって死に入ってゆく実験