◎みずからに恥じて自己を制して
ダンマパダ(真理の言葉)の第10章暴力から
『129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
(略)
131 生きとし生ける者は幸せを求めている。もし暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。
(略)
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すだろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
(略)
143 みずからに恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?』
(ブッダの真理のことば感興のことば/岩波文庫P28-30から引用)
ダンマパダは、冥想初心者向け、生活者向けの日常の行住坐臥関連の箴言集。オーディンの箴言やベンシラの知恵と同様に語り口は平易だが、意味するところは深遠な表現が並んでいる。
殺生について真っ先に話題になるのは肉食のこと。極端な例では、アルゼンチンでは、一生牛肉しか食べず、野菜を食べない人物が普通にいる由。また各宗派は、牛はどう豚はどうなど肉の種類によって良し悪しを定めたり、出口王仁三郎は、魚と鳥は無条件にOKで、陸生の動物も一部可などと明示する。ただ基本線は、ダンテス・ダイジがいうように本当に『愛』を知るならば、肉食などはできないというところなのではないか。基本線があるということは、厳密に言えば逸脱もあるということだが、『愛』知らぬ人間が逸脱を論じることにあまり意味はあるまい。
さらに、ここでは『殺してはならぬ、殺させてはならない』とあるが、オウム真理教事件で死刑になった者には、実行犯以外に殺させた人物も死刑になっている。釈迦も漏らすようなことはない。
ここに引用はしなかったが、137では『手向かうことなく罪とがのない人に暴力を加えた場合の報い』が、激痛、重病など十種類も例示してある。今も昔も無辜の人々への殺戮は特筆ものなのだ。
無辜の人々への殺戮の多いウクライナの件で妙なのは、停戦を唱えながらウクライナへの武器支援をもって援助とする世論が行われていることである。停戦ではなく継戦。それは、求道者の発想ではない。
そして釈迦は、更に荒々しい言葉を戒める。相手がいうことをわかってくれないシーンは少なくないが、言葉は心にそのまま残るだけにこの点も配慮すべきである。ただ言葉つきだけうるわしく、詐欺師が世にはびこっているということもあり、なかなか一筋縄ではいかない時代である。およそカルトもオレオレ詐欺も、ネットワークビジネスも、上品でそつのない言葉でささやくがゆえに。
ダンマパダ(真理の言葉)の第10章暴力から
『129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。
(略)
131 生きとし生ける者は幸せを求めている。もし暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後には幸せが得られない。
(略)
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すだろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
(略)
143 みずからに恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?』
(ブッダの真理のことば感興のことば/岩波文庫P28-30から引用)
ダンマパダは、冥想初心者向け、生活者向けの日常の行住坐臥関連の箴言集。オーディンの箴言やベンシラの知恵と同様に語り口は平易だが、意味するところは深遠な表現が並んでいる。
殺生について真っ先に話題になるのは肉食のこと。極端な例では、アルゼンチンでは、一生牛肉しか食べず、野菜を食べない人物が普通にいる由。また各宗派は、牛はどう豚はどうなど肉の種類によって良し悪しを定めたり、出口王仁三郎は、魚と鳥は無条件にOKで、陸生の動物も一部可などと明示する。ただ基本線は、ダンテス・ダイジがいうように本当に『愛』を知るならば、肉食などはできないというところなのではないか。基本線があるということは、厳密に言えば逸脱もあるということだが、『愛』知らぬ人間が逸脱を論じることにあまり意味はあるまい。
さらに、ここでは『殺してはならぬ、殺させてはならない』とあるが、オウム真理教事件で死刑になった者には、実行犯以外に殺させた人物も死刑になっている。釈迦も漏らすようなことはない。
ここに引用はしなかったが、137では『手向かうことなく罪とがのない人に暴力を加えた場合の報い』が、激痛、重病など十種類も例示してある。今も昔も無辜の人々への殺戮は特筆ものなのだ。
無辜の人々への殺戮の多いウクライナの件で妙なのは、停戦を唱えながらウクライナへの武器支援をもって援助とする世論が行われていることである。停戦ではなく継戦。それは、求道者の発想ではない。
そして釈迦は、更に荒々しい言葉を戒める。相手がいうことをわかってくれないシーンは少なくないが、言葉は心にそのまま残るだけにこの点も配慮すべきである。ただ言葉つきだけうるわしく、詐欺師が世にはびこっているということもあり、なかなか一筋縄ではいかない時代である。およそカルトもオレオレ詐欺も、ネットワークビジネスも、上品でそつのない言葉でささやくがゆえに。