◎夢は死の世界のアナロジー
駅前には、若い女性を対象にしたハタ・ヨーガの教室が花盛りである。ハタ・ヨーガは、肉体の状態を整えることを目的としており、整えばクリヤ・ヨーガの実習に進む。
クリヤ・ヨーガとは、クンダリーニ・ヨーガのことである。
クンダリーニ・ヨーガとは、死の世界をクリアすることによって、ニルヴァーナに到達しようとする道。
死の世界とはおどろおどろしいが、メンタル体などの微細身で死の世界の仮免、路上教習を重ね、最終的には個なる微細身を超え、すべてのすべてであるアートマン、ブラフマン中心太陽に到達し、名状しがたいニルヴァーナに至るプロセスの舞台。
チベット死者の書では、体験した者だけがわかる『無上の垂直道』という印象的な言葉が置かれている。
以下の文はチベット死者の書において、個の心の変遷の様子についていえば、夢を見ることが死の世界での体験に似ていることを指摘している。昔は夢を見ることが代表的なトランス体験だったが、今は薬物を摂取することでのトランスも知られるようになった。だが、トランスが起きても正しい師匠の指導がなければ、容易にはニルヴァーナに到達はできない。何十億人が毎日夢を見続けても、大悟覚醒するのは、砂漠に花が咲くような確率だからである。
以下の文は、チベット死者の書に関するものだが、次の3点を指摘している点に注目すべきだろう。
1.夢の中でも身体があるように感じる感覚は、バルド(中有)における微細身の感覚のアナロジー。
2.夢見ていることを意識しながら目覚めることなく夢を見続ける能力の開発は、「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力の練習になる。
3.その能力は、やがて到来する自分個人が世界全体宇宙全体であったことに気づくことに役立つ。
『だが、心の意識は死によって終わることはなく、バルドに入って変化する。なぜなら、 心の意識はもはや粗雑な身体に根ざしたものではないし、五感の刺激に左右されるものでもないからだ。
たとえば、夢の意識は、私たちの通常の生の中で、心の意識が粗雑な身体の感覚とは関係なく働く一例だ。夢をバルドに喩えるのは重要なことだし、実際、夢はバルドの意識の前駆体ともいえるものだ。
睡眠状態にあるとき、五感は働きを停止するが、心の意識はよりきめ細やかに働き続けているからだ。夢を見ているときはたいてい、心の意識は目や耳や周囲から入る刺激から生じており、だから、夢の中でも音が聞こえたり色とりどりの景色を見たりする。
夢の中でも身体があるように感じる感覚は、バルドにおける自己の感覚を表現するのに重要なアナロジーとなる。特別な訓練を積んでいない普通の人々は、まず、こうした感覚を自分のものとすることはできない。
普通の人はめったに夢を覚えていないし、夢を見始めるところや覚めるところを覚えている人はほとんどいない。また、はっきりとした夢を見ることのできる人はひじょうに少ない。
夢見ていることを意識しながら目覚めることなく夢を見続けることのできる人はまずいないものだ。
こうした能力の開発は、「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力を身につけ、バルドの過渡的な経験の中にあっても自分が何者でどこにいるのかを意識し続けるためには、何よりも大切なことだ。』
(現代人のための「チベット死者の書」/ロバート・A.F.サーマン/朝日新聞社P79-81から引用)
カルロス・カスタネダ本でも、夢見の技術を説き、泰西でも夢見の技術の書もある。連続的に夢を見るというのは、連続してアストラル意識にあることなどとは単純に言い難いものではあるが、現実と夢見の区分がつきがたくなるものだろうから、米国の遠隔透視部隊みたいなことになる可能性は高いのではないか。
この本では、さらっと「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力が覚醒には必要だみたいに書いているが、事はそれほど簡単ではなく、生還できるかどうかも、宇宙飛行士のツァー並みに大きな課題ではある。
そして『熟眠中に夢を見ない』というテーマも無視できない。
駅前には、若い女性を対象にしたハタ・ヨーガの教室が花盛りである。ハタ・ヨーガは、肉体の状態を整えることを目的としており、整えばクリヤ・ヨーガの実習に進む。
クリヤ・ヨーガとは、クンダリーニ・ヨーガのことである。
クンダリーニ・ヨーガとは、死の世界をクリアすることによって、ニルヴァーナに到達しようとする道。
死の世界とはおどろおどろしいが、メンタル体などの微細身で死の世界の仮免、路上教習を重ね、最終的には個なる微細身を超え、すべてのすべてであるアートマン、ブラフマン中心太陽に到達し、名状しがたいニルヴァーナに至るプロセスの舞台。
チベット死者の書では、体験した者だけがわかる『無上の垂直道』という印象的な言葉が置かれている。
以下の文はチベット死者の書において、個の心の変遷の様子についていえば、夢を見ることが死の世界での体験に似ていることを指摘している。昔は夢を見ることが代表的なトランス体験だったが、今は薬物を摂取することでのトランスも知られるようになった。だが、トランスが起きても正しい師匠の指導がなければ、容易にはニルヴァーナに到達はできない。何十億人が毎日夢を見続けても、大悟覚醒するのは、砂漠に花が咲くような確率だからである。
以下の文は、チベット死者の書に関するものだが、次の3点を指摘している点に注目すべきだろう。
1.夢の中でも身体があるように感じる感覚は、バルド(中有)における微細身の感覚のアナロジー。
2.夢見ていることを意識しながら目覚めることなく夢を見続ける能力の開発は、「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力の練習になる。
3.その能力は、やがて到来する自分個人が世界全体宇宙全体であったことに気づくことに役立つ。
『だが、心の意識は死によって終わることはなく、バルドに入って変化する。なぜなら、 心の意識はもはや粗雑な身体に根ざしたものではないし、五感の刺激に左右されるものでもないからだ。
たとえば、夢の意識は、私たちの通常の生の中で、心の意識が粗雑な身体の感覚とは関係なく働く一例だ。夢をバルドに喩えるのは重要なことだし、実際、夢はバルドの意識の前駆体ともいえるものだ。
睡眠状態にあるとき、五感は働きを停止するが、心の意識はよりきめ細やかに働き続けているからだ。夢を見ているときはたいてい、心の意識は目や耳や周囲から入る刺激から生じており、だから、夢の中でも音が聞こえたり色とりどりの景色を見たりする。
夢の中でも身体があるように感じる感覚は、バルドにおける自己の感覚を表現するのに重要なアナロジーとなる。特別な訓練を積んでいない普通の人々は、まず、こうした感覚を自分のものとすることはできない。
普通の人はめったに夢を覚えていないし、夢を見始めるところや覚めるところを覚えている人はほとんどいない。また、はっきりとした夢を見ることのできる人はひじょうに少ない。
夢見ていることを意識しながら目覚めることなく夢を見続けることのできる人はまずいないものだ。
こうした能力の開発は、「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力を身につけ、バルドの過渡的な経験の中にあっても自分が何者でどこにいるのかを意識し続けるためには、何よりも大切なことだ。』
(現代人のための「チベット死者の書」/ロバート・A.F.サーマン/朝日新聞社P79-81から引用)
カルロス・カスタネダ本でも、夢見の技術を説き、泰西でも夢見の技術の書もある。連続的に夢を見るというのは、連続してアストラル意識にあることなどとは単純に言い難いものではあるが、現実と夢見の区分がつきがたくなるものだろうから、米国の遠隔透視部隊みたいなことになる可能性は高いのではないか。
この本では、さらっと「はっきりとした意識をもって死ぬ」能力が覚醒には必要だみたいに書いているが、事はそれほど簡単ではなく、生還できるかどうかも、宇宙飛行士のツァー並みに大きな課題ではある。
そして『熟眠中に夢を見ない』というテーマも無視できない。