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武士の鑑、畠山重忠と最期

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◎君がすでに死んでいることを学ぶ

武士にとって先陣を命ぜられることは、大変な名誉であった。

源頼朝が、石橋山の合戦で敗れて、一旦房総に逃れ、捲土重来武蔵国経由で鎌倉入りする際に、弱冠17歳の畠山重忠が先陣を命ぜられた。

木曽義仲を打ち破り、後白河法皇御前での名乗りでは、源義経の次が畠山重忠だった。屋島の合戦では、暗夜の強風の中を源義経が一番船で、二番船が畠山重忠。

源頼朝を大将軍とする奥州征伐では、畠山重忠が先陣。そして1190年の頼朝上洛の晴れ舞台に際して先陣の栄誉を賜ったのはまたしても畠山重忠だった。彼はこうして武士の鑑として押し上げられていく。

さて仏教説話の沙石集では、畠山重忠は、岩手県胆沢などに置かれた奥州鎮守府での苦労のことを思い、平素より我が館の中では煙を立てないと心掛けていたことが、武士としての心映えを称賛される例として挙げられている。

沙石集では、こうした心構えの武士の子弟が仏道に入った場合、解脱を期して修行に打ち込み、洞察も深いものであるとし、このような時代にこのように菩提心を起こして仏道修行する人は、本当に得難いとしている。

梶原景時は一旦本拠地に帰ってから出陣して幕府への異心を疑われる不名誉を受け滅ぼされたが、畠山重忠は、北条時政の謀略にかかったものの、景時の轍を踏まず本拠地に戻らないまま、二俣川にて数万の討手に対し、敢えて135騎で応戦し、討ち死に。武士のはしりの時代に武士の生きざまの美を見せてくれた。

こうした優れた人物の積み重ねが、今の日本人の生き方につながっているわけだが、誠にこの時代、善いことをして悪いことをしないで生きる人は貴重である。

『君の幸福と不幸は
君が死ぬことから来ている
君は間違いなく死ぬ
君の人間としての生涯は
君がすでに死んでいることを
学ぶためにある』
救世主入門/ダンテス・ダイジより)

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