◎アストラルな分身
サンジェルマン伯爵という謎の人物は、18世紀初めに出現し、19世紀初め頃までには欧州を中心に闊歩していたらしい。出現した地域は、ロシア、フランス、ローマ、カルカッタ、ロンドンと文字通り世界を股にかけている。
『『列国の王のスパイ、サン-ジェルマン伯爵』という優秀な論文でクーパー-オークレー夫人は、この驚くべき人物が、一七一〇年から一八二二年までの間に偽ったもっとも重要な名前をリストにしている。
「この期間に」と夫人は書いている。「サン-ジェルマン伯爵は、モントフェラ侯爵、ヴェニスでベラマレ伯爵やアイマル伯爵、ピサでシェニング士爵、ミラノとライプチッヒで、ウェルドン士爵、ジェノアとレグホーンでソルティコフ伯爵、シュパルバッハとトリーズドルフでツアロジ伯爵、ドレスデンでラゴッツィ王子、パリ、ロンドン、ザンクト-ペテルブルグ(レニングラード)では、サンジェルマン伯爵だった。」。
歴史家がサン−ジェルマン氏の生涯の大使命だと見なした政治上のスパイ活動のために、伯爵がこういった種々の名前を用いたことは明白である。
サンジェルマン伯爵は、中背で均整のとれた体つきをし、よく整った好もしい容貌だったと記されている。顔色はちょっと浅黒く、髪は黒かった、か、よくおしろいをつけていた。衣服は簡素で普通は黒地だったが、よく似合い、最高級のものだった。
明らかにダイアモンド狂で、指輪だけでなく、鎖付き腕時計、嗅ぎ煙草入れ、留め金にもダイアモンドを付けていた。ある宝石商はかつて伯爵の靴の留め金の価格を二十万フランと見積っている。
伯爵は全体に皺が全くなく、肉体の衰えもない中年の人として描かれる。肉を食べず、ワインも飲まず、実際めったに他人の前で食事をとったことがなかった。
彼はフランスの宮廷の少数の貴族からいかさま師でぺてん師だと見なされたが、彼の悪口を言ったある廷臣をルイ十五世は厳しく譴責した。彼の態度の特徴をなす気品と威厳は、あらゆる事態を完璧に掌握する力とともに、「礼儀作法に適った生まれ」の人が持つ生来の洗練された教養の証拠となった。
また、この驚嘆すべき人物には尋ねられる前から審問者の質問をこの上なく詳細に見抜く力もあった。テレパシーのようなものにより遠い都市や国家で自分が必要とされる時を感知することもできたし、扉を利用せずに、自室や友人の部屋に姿を現わすだけでなく、そこから同じようにして出て行くという驚くべき習慣もあった。』
(カバラと薔薇十字団/マンリー・P・ホール/人文書院P287-288から引用)
更に、彼は冥想もやっていた。
『サン-ジェルマン伯爵は東洋の秘教の原理に完全に精通していた。東洋の瞑想を集中の体系を実践し、数回はヒンドゥー教徒のような姿勢をして座禅を組んだ。ヒマラヤ山脈の中心に隠退所を持ち、そこで彼は時折世間を離れて暮らした。あるとき、インドで八十五年間ずっと居て、それからヨーロッパでの仕事場に戻ると断言した。
いろいろな折にふれて彼は自分より高度で偉大なるある力の命令に従っていることを認めた。彼が言わなかったことは、この卓越せる力が明確な使命を果たすために彼を世に送り出した「密儀」の学派であるということだった。
サンジェルマン伯爵とフランシス・ベーコン卿は過去千年間のうちで「密儀団体」によって世に送り出された最高の二人の密使なのである。』
(同上書P289から引用)
大体こういう人は、世間に痕跡を残さずに活動するものなのだが、サンジェルマン伯爵は意図的に痕跡と記憶を残して活動してみせたということだろう。
分身を用いる場合は、不慣れな場合は、アトウォーターみたいに下手をうつことがあるが、彼はその点手練れであって、そのご神業に寸分の隙も見せなかったということだろう。
そしてこの手の人物の常として、彼と出会うことを本気で希求すれば出会うことも可能なのだろうと思う。
【チャクラと七つの身体−206】
◎アストラル体−75
2.アストラル体の性質−56
4.死の世界を扱う技術-8 サンジェルマン伯爵行状
(ザ・ジャンプ・アウト260)
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サンジェルマン伯爵という謎の人物は、18世紀初めに出現し、19世紀初め頃までには欧州を中心に闊歩していたらしい。出現した地域は、ロシア、フランス、ローマ、カルカッタ、ロンドンと文字通り世界を股にかけている。
『『列国の王のスパイ、サン-ジェルマン伯爵』という優秀な論文でクーパー-オークレー夫人は、この驚くべき人物が、一七一〇年から一八二二年までの間に偽ったもっとも重要な名前をリストにしている。
「この期間に」と夫人は書いている。「サン-ジェルマン伯爵は、モントフェラ侯爵、ヴェニスでベラマレ伯爵やアイマル伯爵、ピサでシェニング士爵、ミラノとライプチッヒで、ウェルドン士爵、ジェノアとレグホーンでソルティコフ伯爵、シュパルバッハとトリーズドルフでツアロジ伯爵、ドレスデンでラゴッツィ王子、パリ、ロンドン、ザンクト-ペテルブルグ(レニングラード)では、サンジェルマン伯爵だった。」。
歴史家がサン−ジェルマン氏の生涯の大使命だと見なした政治上のスパイ活動のために、伯爵がこういった種々の名前を用いたことは明白である。
サンジェルマン伯爵は、中背で均整のとれた体つきをし、よく整った好もしい容貌だったと記されている。顔色はちょっと浅黒く、髪は黒かった、か、よくおしろいをつけていた。衣服は簡素で普通は黒地だったが、よく似合い、最高級のものだった。
明らかにダイアモンド狂で、指輪だけでなく、鎖付き腕時計、嗅ぎ煙草入れ、留め金にもダイアモンドを付けていた。ある宝石商はかつて伯爵の靴の留め金の価格を二十万フランと見積っている。
伯爵は全体に皺が全くなく、肉体の衰えもない中年の人として描かれる。肉を食べず、ワインも飲まず、実際めったに他人の前で食事をとったことがなかった。
彼はフランスの宮廷の少数の貴族からいかさま師でぺてん師だと見なされたが、彼の悪口を言ったある廷臣をルイ十五世は厳しく譴責した。彼の態度の特徴をなす気品と威厳は、あらゆる事態を完璧に掌握する力とともに、「礼儀作法に適った生まれ」の人が持つ生来の洗練された教養の証拠となった。
また、この驚嘆すべき人物には尋ねられる前から審問者の質問をこの上なく詳細に見抜く力もあった。テレパシーのようなものにより遠い都市や国家で自分が必要とされる時を感知することもできたし、扉を利用せずに、自室や友人の部屋に姿を現わすだけでなく、そこから同じようにして出て行くという驚くべき習慣もあった。』
(カバラと薔薇十字団/マンリー・P・ホール/人文書院P287-288から引用)
更に、彼は冥想もやっていた。
『サン-ジェルマン伯爵は東洋の秘教の原理に完全に精通していた。東洋の瞑想を集中の体系を実践し、数回はヒンドゥー教徒のような姿勢をして座禅を組んだ。ヒマラヤ山脈の中心に隠退所を持ち、そこで彼は時折世間を離れて暮らした。あるとき、インドで八十五年間ずっと居て、それからヨーロッパでの仕事場に戻ると断言した。
いろいろな折にふれて彼は自分より高度で偉大なるある力の命令に従っていることを認めた。彼が言わなかったことは、この卓越せる力が明確な使命を果たすために彼を世に送り出した「密儀」の学派であるということだった。
サンジェルマン伯爵とフランシス・ベーコン卿は過去千年間のうちで「密儀団体」によって世に送り出された最高の二人の密使なのである。』
(同上書P289から引用)
大体こういう人は、世間に痕跡を残さずに活動するものなのだが、サンジェルマン伯爵は意図的に痕跡と記憶を残して活動してみせたということだろう。
分身を用いる場合は、不慣れな場合は、アトウォーターみたいに下手をうつことがあるが、彼はその点手練れであって、そのご神業に寸分の隙も見せなかったということだろう。
そしてこの手の人物の常として、彼と出会うことを本気で希求すれば出会うことも可能なのだろうと思う。
【チャクラと七つの身体−206】
◎アストラル体−75
2.アストラル体の性質−56
4.死の世界を扱う技術-8 サンジェルマン伯爵行状
(ザ・ジャンプ・アウト260)

