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Channel: アヴァンギャルド精神世界
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一休のアートマン

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○本来もなき古(いにしえ)の我なれば

一休水鏡は一休没後の成立だとされているが、まったく後人の作ばかりということではなくて、当時巷間一休の作と伝えられていたであろう作品がいくつか含まれているとも言われている。

要するにその作品の描いている世界の格調によって、一休の真作かどうか見当がつくと見られているのだ。

本来もなき古(いにしえ)の我なれば
死に行く方も何もかも無し

これは、水鏡中の白眉というべき作品。本来の自己を究明するなどとかまびすしく言うが、本来と言うもおろかな太古の我(アートマン)が屹立している。それには自分などという個性はない。
そこは既に自分という個性が死んだ世界であるから、「死に行く方」ももちろんないし、何もかもない。

これぞ妙な「信仰に対する信念」の果てに見た世界ということではなく、何か憑依した霊ががささやいた奇天烈な宇宙観ということでもなく、個我の消え果た異次元の風光がそこに厳然としてあり、そこでは死すらも包含された、我ら常識的社会人にとっては、全くわけのわからない巨大な世界が広がっている。一休は、その世界こそまぎれもない現実であるという日常に生きている。


釈迦といふいたづら君の世に出でて
多くの者を迷はするかな

その世界のことは、youtubeなどの音声付動画・アニメや漫画で伝えられるものではない。釈迦は、クンダリーニ・ヨーガ(密教)も只管打坐もヴィパッサナー(呼吸冥想)も極めたとんでもないスーパー・ヒーローだったが、その釈迦ですら、その世界のことを伝えられなかった。

釈迦は、その伝えられないという現実に素直だったので、著作を一本も残していない。どの経典も彼の弟子が「私はこう聞いた」になっている。

当たり前だが、釈迦は自分が在世中の弟子たちに説いたのであって、21世紀の知性が発達して、個我と「本来もなき古(いにしえ)の我」との違いが想像がつくような、教化するには極めて困難な手合いを相手にしていたわけではない。だから釈迦の言葉すべてが現代に通用するものでもない。

また釈迦の時代には、弟子たちにはある程度「教えられた」のだろう。今の時代の求道者は釈迦に教えてもらうことなんかできない。自分で捜し当てるしかないのだ。しかし釈迦の時代も今も「それ」を伝えてもらうことはできないという点は変わらない。求道者の平均レベルが大きく変わったのだ。

言葉でも、映像でも表現できない「それ」を伝えようとして、釈迦はいろいろやってみたが、一休がわかってみると、単なるいたづら悪ふざけにすぎなかったと喝破したのだ。いたづらだと知的理解したとしても、ではどうすればいいかは自分で考えるしかない。

【チャクラと七つの身体-341】
◎アートマン-45
6.禅 ◎一休のアートマン
(ザ・ジャンプ・アウト395)

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